2016/08/07 18:35

「それから」夏目漱石著

H280807sorekarashimada.jpg

「三四郎」の次に「それから」を読みました。
「それから」の主人公代助は、明治42年の小説発表時に30歳ですから、明治2桁生まれの設定です。
「坊っちゃん」が明治維新前の江戸っ子、「三四郎」は代助より若いのですが熊本の高校から出てきて「頭は明治元年だ」と言われていたのに対し、代助は明治以降の西洋の個人主義にどっぷりつかって育った世代でした。
明治維新前に生まれた代助の父親世代から見れば、代助は戦後世代、新人類、ゆとり世代と言われる世代です。

H280807yakyuukinennhishimada.jpg
代助は、毎朝紅茶を飲み、丸善から取り寄せた洋書を読み、西洋音楽や歌舞伎を見に行き園遊会にも行きます。
甥の誠太郎と野球の相手もしています。
野球は、東京大学の前身の開成学校のアメリカン教師ウィルソンが明治5年1872年に初めて伝えられました。開成学校のあった学士会館の脇に碑があります。
「それから」の発表当時、プロ野球はまだ始まっていませんが、早慶戦が行われ、明治41年(1908年)に日米野球が行われました。
その一方で明治維新前からあった国技の相撲も、回向院で行われていたのが、常設館(国技館)が明治42年にできます。
また代助は、神田のビヤホールでビールを飲みます。
H271116biiffpaishimada1.jpg

ビヤホールは明治32年(1899年)銀座にできた「恵比寿ビヤホール」最初ですが、神保町のビアレストラン「ランチョン」も明治42年に創業していました。「それから」が発表された時代には神田にもビヤホールができていたのでしょう。

そんな代助に儒教の教育を受けた代助の父親は、「自分だけを考えず、世の中、国家、人のために何かをするのが国民の義務だ」といいます。
H280313yasukunidorishimada1.jpg

これに対して西洋の個人主義に感化された代助は、儒教によって行動を決めるのではなく、行動は自分が自然な気持ちで決めていくのだといい、生活や家族のために働くのは誠実ではない、といって職に就かず、親や兄の援助で生活していました。

ある日、代助の友人平山が妻と上京します。平山の妻三千代は代助は愛していましたが、友情から平山との結婚を仲介した女性です。
平山と三千代が上京し、宿をとったのは裏神保町です。
裏神保町は現在の靖国通りです。靖国通りは現在大通りですが、当時は、すずらん通りが、大通りで表神保町といわれて今とは逆でした。
大正2年の大火事によって、現在のような形になります。

H280807nikoraidoushimada.jpg

上京した平山に代助はニコライ堂の復活祭の様子を語ります。漱石は、弟子の小宮豊隆が見に行ったのを聞いてこのくだりを書いたと言われています。小宮を復活祭に誘ったのはロシア生まれの留学生セルゲイ・エリセーエフ。第二次大戦中マッカーサーに神保町を爆撃の目標から除外するよう進言したといわれた男です。神保町を愛する人がこの時代もいたのですね。

代助は、父の恩人の多額納税者の娘と家のため、父の会社のため結婚するよう勧められます。
三千代との愛が再燃した代助は、家、友の信頼、社会の掟に反しても、自分個人の自然な意思に従い、父の進める結婚を断り、三千代との結婚を選びました。
H280723sousekizennsyushimada.jpg

その結果、親、兄弟、友、社会から疎外され、代助は、生活や家族のため職を探すことになります。

西洋文化と日本の古い文化が混在する明治の時代に、代助は西洋的個人主義を選び、古い日本の社会とぶつかります。
漱石の作品は「門」「こころ」と進み、西洋的個人主義を選んだ主人公は、日本の古い社会とぶつかり悩んでいきます。

定本 漱石全集 岩波書店 2016年12月刊行予定

島田 敏樹

2016/07/30 18:42

松栄亭

H280723syoueinorennshimada.jpg

松栄亭に夏目漱石が食べたという「洋風かき揚げ」を食べに行きました。

松栄亭は神田須田町1丁目にあります。
松栄亭のある神田須田町1丁目と淡路町2丁目の界隈は、昔、連雀町といわれ、まつや、竹むら、ぼたん、いせ源、藪蕎麦等趣のある老舗名店がある地域です。
連雀町の名前の由来は、商人が品物を背中に背負う用具の連雀造りの職人が集まった町だったことから付けられました。連雀町は職人の街でした。
神田は、小川町交差点を超えて、東と西とでは気質が違うと言われています。職人の街として、江戸から続いてきた街と、明治維新後、学生の街としてできた西の神保町とは同じ神田でも、違うのでそのように言われるのでしょう。

松栄亭に行くために、神保町の靖国通りを真直ぐ須田町を目指します。

H280723fuurinnshimada.jpg
例年よりも遅い梅雨明けが宣言されて、暑い7月30日に靖国通り沿いを神田須田町に向かって歩いて行くと、本郷通りとぶつかる小川町の交差点に、涼しげに鳴っている風鈴がつるされていました。
小川町の交差点を超えてさらに靖国通りを進み、須田町の外堀通りを超えて、りそな銀行を曲ると松栄亭が見えます。
松栄亭につくと、懐かしい洋食屋さんの店構えでした。中に入ってメニューを見ると、洋風かき揚げ、ハヤシライス、カレーライス等があります。
カレーライスは、以前注文しました。懐かしい味がします。明治41年発表された夏目漱石の「三四郎」にでてくる本郷通りの淀見軒のライスカレーもこういう味がしたのではないだろうか。

今回はハヤシライスと洋風かき揚げを注文しました。
H280730hayasiraisushimada.jpg

店内を見ると、数年前、TBSテレビで放送された「天皇の料理番」のポスターが貼ってありました。
「天皇の料理番」は明治生まれの秋山徳蔵が西洋料理の料理人になるため、福井から東京に出て天皇の料理番になる物語です。
ポスターには秋山徳蔵役の佐藤健さんと徳蔵の妻役の黒木華さんのサインがありました。松栄亭の3代目が、昔、宮内庁の秋山徳蔵の下で働いていたことがあり、その関係で2人はTBSの「ぴったんこカンカン」という番組で訪問し、ハヤシライスを食べたそうです。
ハヤシライス発祥は、秋山徳蔵が宮廷で創作し広まったという説があります。その秋山徳蔵の下で働いていた先代から引き継がれたハヤシライスを食べてみました。

H280723youfuukakiageshimada.jpg

ハヤシライスを食べ終わると、洋風かき揚げを持ってきてくれました。

洋風かき揚げは、ドイツ系ロシア人のフォン・ケーベル博士の教え子の夏目漱石と幸田延子(幸田露伴の妹)が、お屋敷を訪問した際、博士のコックだった初代が「何かめずらしいものをすぐにこしらえてください。」と言われ、ありあわせの材料で作り、好評だった料理です。
明治40年に松栄亭を開業した時に「洋風かき揚げ」が、正式メニューに加えられました。
豚肉とねぎを小麦粉でつなぎ合わせて、衣をつけてあげてあります。 辛子とデミグラスソースをたっぷりかけて食べました。衣の中は卵がいっぱいの小麦粉の中に細かく切った豚肉とねぎが入っています。

H280723syoueishimada.jpg

洋風かき揚げを食べてお腹いっぱいになり、お会計を済ませて、お店を出ました。
お店を出て、靖国通りに出ると、浴衣をきた女性の二人づれが、下駄を鳴らして歩いていました。
今日は隅田川の花火大会です。

島田 敏樹

2016/07/16 18:51

「カレーの奥義」刊行記念トークイベントー共栄堂

H280716to-kuibenntoshimada.jpg

三省堂書店神保町本店で行われる「カレーの奥義」刊行記念トークイベントに共栄堂店主宮川泰久さんが出るということで、明治大学の「カレー探訪講座」で知り合った仲間と聞きに行きました。
宮川さんと対談するのは、「カレーの奥義」の著者で「カレー探訪講座」で講師もされていた水野仁輔さんです。

H280716kare-noougishimada1.jpg

宮川さんは通常こういう対談は断っているそうですが、神保町のイベントだからということで引き受けられたそうです。
共栄堂さんは、大正13年(1924年)に神保町で創業して、今年で創業92年になります。宮川さんは、「ここまで、お店を続けてこられたのも、本の街神保町のおかげですので、神保町には頭が上がらないのですよ。」と言われていました。
宮川さんの神保町に対する深い愛情を感じます。

H280716kare-shimada.jpg

共栄堂のカレーは味にこだわりがあるので辛さは一定で、一度食べたらくせになる味です。その味は、宮川さんは創業の時から変えていないと言っていました。作り方は、3代目として宮川さんが入ったときに大きく変えてますが、お客さんには味が変わったと気づかれないようにしていると言われました。
水野さんは、それだから長く続くんだと言われていました。

H261206kyoueidoushimada1.jpg

宮川さんは、共栄堂のポークカレーとエビカレーとビーフカレー、タンカレーそれぞれカレールーを具に会うように変えていると言われました。ルーは同じと思ってポークカレーしか食べていなかったので、びっくりしました。
そこで、カレー探訪講座の仲間とイべントが終わってから、食べに行って確かめてみることにしました。

共栄堂についてみると宮川さんの対談イベントの帰りに共栄堂でカレーを食べに来ている人が押し寄せたのか、席は満席で、席が空くまで外で少し待ちました。
しばらくして、「席が空きました。」ウエートレスさんに言われたので店内に入りました。店内に入ると宮川さんが戻ってきています。宮川さんがトークイベントのとき、おいしそうに話されたエビカレーが「 まだありますかね」と聞いてみると、
「何とかします。」と言ってくれたので、

H280716ebikare-shimada.jpg

エビカレーを注文しました。食べてみるとポークカレーと全然違いルーがエビの味のするカレーでした。これは全種類を食べてみるべきだなと思いました。

食事を食べ終わり、お店を出てカレー探訪講座の仲間と再会を祈って別れました。カレー探訪講座は今日で終わりです。

島田 敏樹

2016/07/14 18:54

靖国神社―みたままつり

H280713ootoriishimada.jpg

靖国神社のみたままつりが、7月13日~16日の間にあると聞き、見に行きました。
靖国通りを真直ぐ行き、俎板橋を超えると、靖国神社の大鳥居が見えます。
大鳥居の前まで行くと境内の中の大小の3万の奉納の提灯がぶら下がっていまいした。
境内の奥には、大村益次郎の像があり、その下で、盆踊りを踊っていました。

靖国神社の大鳥居から境内に入り、大村益次郎の像に向かって歩きした。H280713tyoutinnshimada.jpg

靖国神社は、戊辰戦争や西南戦争などの内戦の官軍の新政府の戦没者を慰霊するため建てられました。
そのため、高杉晋作、大村益次郎等長州藩や薩摩藩等の新政府の功労のあった維新の志士は祀られていますが、旧幕府軍の戦没者は祀られていません。

今年も境内に、屋台はありませんでしたが、それでも、浴衣を着た女性の二人組、外国人等が歩いていました。意外と若い人が多いようです。

H280713okunotoriishimada-240x180.jpg

境内の左右には3万の提灯が、オレンジ色に光ぎっしりとぶら下がっていました。

盆踊りを、踊っている人がいる、大村益次郎の像の前に着きました。
夏目漱石が「三四郎」で、画家の原口が、この大村益次郎の像をこきおろします。
夏目漱石が靖国神社の前身の招魂社をあまり敬意を払わず、明治の文明批判しているのも、夏目漱石は江戸っ子だったので、薩長の新政府に対しては批判的だったのでないかと言われています。

H280713nebutashimada.jpg

大村益次郎の像を過ぎ、第2鳥居の前に行くと、法被を着た人たちが、ねぶたを引いていました。今日は小雨だったので、ねぶたにビニーを被っていました。

夏目漱石は、「坊っちゃん」で、西洋かぶれの赤シャツを、江戸っ子の坊っちゃんが懲らしめて、江戸っ子の夏目漱石が、新政府が進める西洋化を皮肉ています。

大村益次郎の像の方に戻ると、売店がありました。屋台は出ていませんが売店はやっていました。売店でビールといか焼きを食べました。

H280713jyoutoumeidaishimada1.jpg

靖国神社は、日露戦争後戦没者の英霊を祀られるようになります。

ビールといか焼きを食べて、大鳥居に向かい大鳥居から、北の丸公園の方を見ると、常燈明台が、戦没者の英霊の向かい火をたいていました。

九段の坂を下って行き、九段下から東京メトロに乗って帰りました。

定本 漱石全集 岩波書店 は2016年12月刊行予定

島田 敏樹

2016/07/13 18:48

「三四郎」夏目漱石著

H280723sannsiroushimada.jpg

漱石没後、100年を記念して、おさんぽ神保町が発足したコンシェルジュチームによる漱石のガイドツアー等をこの秋に開催します。ガイドツアーを楽しめるよう漱石の「三四郎」を読みました。

熊本の高校を卒業した三四郎が、東京帝国大学に入学するため、上京します。

当時の東京は、明治から41年たち日本の古い文化から西洋化が急速に進んでいました。H280723todennshimada.jpg
昔の古い建物は取り崩され、西洋式の新しい建物に建て替えられ、街にはチンチン電車が走り、電報ができ、三四郎の下宿はランプでしたが、電気も引かれ始めています。
四足は食べないと言われていた時代から、学生集会でナイフとフォークを使って牛肉を食べビールを飲み、上野精養軒でソップを吸うなど牛肉を食べていました。また淀見軒でライスカレーを食べる等洋食が食べられるようになります。
シェークスピアの「ハムレット」が、上演されるようにもなりました。
H280723ronndonnshimada.jpg

個人主義、合理主義という西洋が300年かけて築き上げた思想を明治維新後40年でたどり着こうとしています。
明治維新前、孝(親)のため、忠(国)のため、仁(友)のため、義(社会)のためと、することなすことすべてが「他人のためだ」と言われていたのに、西洋から個人主義が輸入されると「自分のために」変わりました。
三四郎の大学の友人与太郎が寄宿させてもらっている英語教師広田は古い日本の文化を偽善、新しい西洋文明を露悪と言っています。

H280723toumeidaishimada.jpg

その一方燈明台という古い燈台の傍に偕行社の新式の煉瓦造りの建物が建てられるということが日本社会を代表しているように、東京にはまだ古い日本の文化も混在していました。

新しい西洋文化と古い日本文化との混在する東京で、上京した三四郎は迷子(stray sheep)になります。

そんな中三四郎は、美しい女性と出会いました。

三四郎の通う東京帝国大学は、明治17年(1884年)夏目漱石が入学したときは、神田錦町3丁目にありました。三四郎が入学したときは、本郷に移されています。
H280723toudaihassyoushimada.jpg

本郷に移された東京帝国大学の同郷の先輩の野々宮に会いに行った帰り、三四郎池の椎の木の下でしゃがんでいた三四郎は、扇子を持った里見美禰子と会います。

里見美禰子は女性解放を掲げる雑誌を創刊した平塚らいてうがモデルといわれています。
美禰子は、新しい時代の女性でした。

美禰子とは、野々宮の妹のよし子のお見舞いに再会し、広田の引越しの手伝いに行ったとき、一緒に部屋を片付けます。団子坂の菊人形に一緒に行き、日本帝国大学の運動会でも会います。三四郎美禰子は互いに好意を持ち出します。

美禰子も迷子でした。まだお見合い結婚が主流だった時代の中で、三四郎との恋愛に踏み切れず、兄の友人と結婚しました。

美禰子結婚後、美禰子をモデルとして描かれた絵の展覧会が開かれます。
三四郎が展覧会に行き絵を見ると、夏の終わりの暑い日、三四郎池の椎の木の下でしゃがんでいるときに、出会った扇子をもった美禰子が描かれていました。

H280723sousekizennsyushimada.jpg

西洋の新しい文化と古い日本文化とが混在する明治の時代の中、江戸っ子の「坊っちゃん」は、西洋文化は相容れないと排斥し、上京した「三四郎」は古い日本文化と新しい西洋文化の間に迷子になります。

西洋文化と古い文化との間で、主人公が翻弄され「それから」、「門」「心」と漱石の作品は進んで行きます。

定本 漱石全集 岩波書店にて2016年12月刊行予定

島田 敏樹