2023/03/07 14:47

「ようこそ本の街、神保町へ!」 No.14 北澤書店

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今回紹介するのは洋書専門の北澤書店。取材に応じてくれたのは社長の北澤一郎氏(68歳)。創業は祖父の弥三郎氏。滋賀県の出身で18歳のとき東京に出て神保町の書店で修業、1902年(明治35年)に独立開業。露店での商売もやっていたという。英米の洋書専門で知られる同店も当初は和漢洋の書籍を扱っていた。明治後半から大正、昭和と日本が海外に出る拡張期、書物は海外の情報を知るきっかけとなる。またその反対に海外も日本の情報を知りたがっていたという時代背景もあった。1920-30年代の目録をみると、今では100年前の書籍もその当時は新刊でまだ日本にはそれだけのものをつくる国力がなく、とても高価な買い物。それでも学術振興のためには必要ということで仕入れていったのだと。大学に大量の本を納めるというのがその時代のビジネス拡張のエポックメイキング。日本国内だけでなく戦前は東京、京都などの帝国大学系列で満州、朝鮮、台湾といった広く海外(当時は日本)の大学にも納品したのだそうだ。やがて戦争が終わり、戦後しばらくは開店休業状態だった。そして1955年、北澤書店にとって大きな節目を迎える。お茶の水女子大学、都立大学で英文学の教鞭をとっていた一郎氏の父、龍太郎氏が祖父からの頼みで二代目として書店を引き継ぐことに。その頃大学の助教授で将来の教授のポストも約束されていた龍太郎氏にとっては迷った末の判断だったという。しかし、本好きでもあった父は総合的に鑑みて英文学、洋書専門店にすることを条件に引き受けたのです、と北澤氏。日本が戦争に負けて戦後10年、在庫目録復刊第一号を出して北澤書店を洋書専門店として公表。当時洋書を専門にやっていたのは丸善、紀伊国屋などが中心であまり多くなかったが、小回りを利かせ海外の出版目録を見て内容を研究しながら日本に合うもの、これから必要になるものを学者ならではの視点で研究、分析、予測し、同業者がなかなかできないことをやって伸ばしていった。英語で商談をこなし、海外の重要人物とも会いながら自分のビジネススタイルをアピールした。学者出身ということでも知られ海外の出版社や大学との信頼関係も相当あったと思う、と話す。その龍太郎氏も1982年、今の本社ビルの建設中に他界した。学者から商売人に転身して洋書専門書店を作り上げ、その集大成としての本社ビルの建築に力を注いで奔走していた矢先のことだった。その翌年完成した北澤ビルは1Fが新刊洋書、2Fが古書洋書としてオープン。神保町の書店街のなかで洋書専門店としてのあゆみを重ねていく。

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そして時代がながれ、再び大きな転機が訪れる。Amazonの進出による輸入販売の一大変革である。それまで洋書販売は総代理店がいてそこから国内仕入でまかなえたがインターネットの普及により産地直送販売が始まったのだ。わずか5年程の間にその波が広がり、北澤書店にとって大きな影響を受けた。2005年に1階で営業していた新刊洋書部の閉店を決断し、18名ほどいた社員全員が退職することに。その後1階はテナントに貸し出し、2階をこれまで通り古書店販売という形態で現在に至っている。

商売にはいろいろな変遷がある。2022年の統計では全国の書店数は8642店で毎年その数は減少傾向にあるとされ、一方の古書店は組合傘下で2300店余り。書店の存在はその街や都市の文化レベルを表す指標ともいわれ、私たちみんなが大事に支えなければという思いがますます募る。

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最近の神保町の古書店街にSNSを介した新しい書店が登場していることなどについて感想をきくと、「これだけ厳しいといわれる業界に関心を持って入ってくる、それ自体がすばらしいことだと思うし、結果はどうなるかわからないがチャレンジできる場であることがその場所の魅力。新しい事業者が現れてきて浮き沈み、入れ替えはあるかも知れないがそういうことが繰り返されて面白い街になっていくのではないかと思う」と北澤氏。後進へのメッセージについて尋ねると、「若さは魅力、自分がまだ若いときはそういうことには気づかなかった。人生はそういうものなのかな。体も動くし、いろいろなことも考えられる。神保町新規参入の店も老舗と呼ばれる店もお互いに刺激し合って若いパワーが街を造っていくと面白いんじゃないかな」・・・時間は誰にも当たり前のように過ぎていく。出来るときに出来ることをやる。何でもチャレンジして突き進んでいってもらいたい、という若い人たちへのメッセージとして響いた。

・・・北澤書店、北澤さんありがとうございました!

 取材日 2023..26 ライター:みずも