2016/12/17 21:34

ぽるとがる酒場―ピリピリ

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駿河台の太田姫神社の傍に、ぽるとがる酒場―ピリピリと書かれたお店があります。 神田教会のザビエルの遺骨を見て、はるばるポルトガルより布教のためやってきて、異郷の地で命を落としたザビエル思い、ポルトガル料理を食べに行きました。 中に入ると、女性が二人厨房にいました。 お店は、姉妹二人でやられていて、妹さんが厨房を担当しています。 カウンター席に案内され、お姉さんがメニューを持ってきてくれました。 ポルトガル料理には、あまりなじみがないので、どういう料理があるのか聞いてみました。

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アロシュ・デ・ボルボという蛸の炊き込みご飯がありましたが、これはスペインのパエリアとリゾットの中間みたいなもので、ポルトガルではタコの他にいろんな魚貝類を入れて食べるそうです。 また、鱈の消費量が多いので、バカリャウ(干し鱈)のコロッケが定番だそうです。 鰯等も食べられますが、魚ばかりでなく、肉も食べられ、若鶏の炭火焼きも食べられるそうです。 アディラワインと自家製ピクルス、えびのガーリックオイル煮、パンを頼みました。 ザビエルが、日本に来たのはポルトガルの大航海時代の主役の時代です。 大航海時代はエンリケ航海王子が、アラビア人から学んだ航海術で大西洋から、インドを目指して航路を見出そうとしたところから、始まりました。 そしてアフリカの南端の喜望峰に達し、ヴァスコ・ダ・ガマにより、インド西南海岸に到達します。 このことにより、シルクロードを通ってヨーロッパに運ばれていたインドの香辛料が、大西洋を航路として運ばれるようになり、これまで、漁村にすぎなかったポルトガルは商業の中心として栄えます。 お姉さんが、アディラワインとピスタチオを持ってきてくれました。 アディラワインのアディラは大西洋南の島でエンリケ航海王子が入植を開始して、大航海時代の第一歩を踏み出した島です。 ポルトガルは、インドについで明とも交易するようになりました。

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さらにインドのゴア、中国のマカオを拠点として、日本の種子島に漂着し、鉄砲を伝え、日本とも交易するようになります。南蛮文化として日本に大きな影響を与えました。 その後、植民地を広げすぎたポルトガルは衰退していき、スペインに併合されます。 鎖国していた日本は明治維新後開国し、西洋文化を学ぶため神保町に大学をつくるのですが、ポルトガルはその主役ではありませんでした。 暫くして、ピクルスとえびのガーリック煮とパンを持ってきてくれます。えびとガーリックは合い、えびは皮まで食べてしまいました。

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食べ終わり会計を済まして外に出ると、 5月の太田姫神社のお祭りの時は、青々としていた銀杏の木は、黄色に色づいていました。 12月は忘年会のシーズンです。大航海時代の主役として、日本にやってきたポルトガルを思い、「ぽるとがる酒場ピリピリ」で忘年会を開かれてはいかがでしょうか。

 

島田 敏樹

2016/12/06 21:37

神田教会―フランシスコ―ザビエルの遺骨

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錦華通りを真直ぐに行ったところに神田教会というカトリック教会があります。 聖堂は日本にキリスト教を伝来した聖フランシスコ―ザビエルを捧げる聖堂として、その遺骨が安置されています。 ヨーロッパでプロテスタントが台頭し始め、危機を感じたカトリックが世界各地に布教を広めるためイエズス会を結成します。イエズス会のザビエルは、ポルトガルから、布教のため戦国時代の日本にやってきました。 ザビエルの人柄と布教のため命懸けで遠方から船に乗って異郷の地にやってきた信仰心に心を打たれ信者がどんどん広まっていきます。 更に信者を増やそうと、中国を目指し上川島に行き、病で命を落としました。

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遺体はインドのゴアに安置され、10年に一度公開され分骨もされます。2000年にその遺骨が、神田教会に安置されるようになりました。 大学受験の時、年号を語呂合わせで覚えました。キリスト教伝来の年号は「以後よく(1549年)なった」と覚えます。キリスト教はザビエルの伝来後、語呂合わせのようには、必ずしもよくはなりませんでした。 ザビエルの死後、信長・秀吉によって天下統一され戦国時代は終わり、その間ポルトガルとの交易とともにキリスト教は広まっていきますが、事件が起きます。(サン・フェリペ号事件) ポルトガルの後を追ってスペインも日本に来ます。そのスペインの船が遭難に遭い聴取した際、水先案内人が「スペインが広大な領土を獲得できたのは、キリスト教の布教と宣教師のおかげ」と発言「日本もいずれスペインの植民地になるだろう」と挑発しました。

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それを聞いた秀吉はキリスト教を禁止します。 秀吉の次の徳川の時代に、新たに台頭してきたプロテスタントの国オランダが日本に来て交易します。オランダは、カトリックの国のスペイン、ポルトガルの植民地政策の危険性を進言し、キリスト教の禁止いっそう強められました。 明治維新後も、キリスト教は禁止されていたため、神田教会の前身はラテン学校として始められます。 明治6年キリスト教の禁教令が解かれ、フランシスコザビエルの聖堂として建てられたのが、神田教会の始まりです。 明治6年キリスト教の禁教令が解かれた後、キリスト教は受け入れられていきました。 キリスト教はその信者を除いては唯一絶対神として受け入れられませんでしたが、538年に仏教が伝来してた時に、神教と共存し、現在では神教が慶事、仏教が弔事とすみ分けられたように、 キリスト教も、キリストの降誕祭をクリスマスとして広く一般に祝われるようになりました。

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島田 敏樹