2016/07/30 18:42

松栄亭

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松栄亭に夏目漱石が食べたという「洋風かき揚げ」を食べに行きました。

松栄亭は神田須田町1丁目にあります。
松栄亭のある神田須田町1丁目と淡路町2丁目の界隈は、昔、連雀町といわれ、まつや、竹むら、ぼたん、いせ源、藪蕎麦等趣のある老舗名店がある地域です。
連雀町の名前の由来は、商人が品物を背中に背負う用具の連雀造りの職人が集まった町だったことから付けられました。連雀町は職人の街でした。
神田は、小川町交差点を超えて、東と西とでは気質が違うと言われています。職人の街として、江戸から続いてきた街と、明治維新後、学生の街としてできた西の神保町とは同じ神田でも、違うのでそのように言われるのでしょう。

松栄亭に行くために、神保町の靖国通りを真直ぐ須田町を目指します。

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例年よりも遅い梅雨明けが宣言されて、暑い7月30日に靖国通り沿いを神田須田町に向かって歩いて行くと、本郷通りとぶつかる小川町の交差点に、涼しげに鳴っている風鈴がつるされていました。
小川町の交差点を超えてさらに靖国通りを進み、須田町の外堀通りを超えて、りそな銀行を曲ると松栄亭が見えます。
松栄亭につくと、懐かしい洋食屋さんの店構えでした。中に入ってメニューを見ると、洋風かき揚げ、ハヤシライス、カレーライス等があります。
カレーライスは、以前注文しました。懐かしい味がします。明治41年発表された夏目漱石の「三四郎」にでてくる本郷通りの淀見軒のライスカレーもこういう味がしたのではないだろうか。

今回はハヤシライスと洋風かき揚げを注文しました。
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店内を見ると、数年前、TBSテレビで放送された「天皇の料理番」のポスターが貼ってありました。
「天皇の料理番」は明治生まれの秋山徳蔵が西洋料理の料理人になるため、福井から東京に出て天皇の料理番になる物語です。
ポスターには秋山徳蔵役の佐藤健さんと徳蔵の妻役の黒木華さんのサインがありました。松栄亭の3代目が、昔、宮内庁の秋山徳蔵の下で働いていたことがあり、その関係で2人はTBSの「ぴったんこカンカン」という番組で訪問し、ハヤシライスを食べたそうです。
ハヤシライス発祥は、秋山徳蔵が宮廷で創作し広まったという説があります。その秋山徳蔵の下で働いていた先代から引き継がれたハヤシライスを食べてみました。

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ハヤシライスを食べ終わると、洋風かき揚げを持ってきてくれました。

洋風かき揚げは、ドイツ系ロシア人のフォン・ケーベル博士の教え子の夏目漱石と幸田延子(幸田露伴の妹)が、お屋敷を訪問した際、博士のコックだった初代が「何かめずらしいものをすぐにこしらえてください。」と言われ、ありあわせの材料で作り、好評だった料理です。
明治40年に松栄亭を開業した時に「洋風かき揚げ」が、正式メニューに加えられました。
豚肉とねぎを小麦粉でつなぎ合わせて、衣をつけてあげてあります。 辛子とデミグラスソースをたっぷりかけて食べました。衣の中は卵がいっぱいの小麦粉の中に細かく切った豚肉とねぎが入っています。

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洋風かき揚げを食べてお腹いっぱいになり、お会計を済ませて、お店を出ました。
お店を出て、靖国通りに出ると、浴衣をきた女性の二人づれが、下駄を鳴らして歩いていました。
今日は隅田川の花火大会です。

島田 敏樹

2016/07/16 18:51

「カレーの奥義」刊行記念トークイベントー共栄堂

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三省堂書店神保町本店で行われる「カレーの奥義」刊行記念トークイベントに共栄堂店主宮川泰久さんが出るということで、明治大学の「カレー探訪講座」で知り合った仲間と聞きに行きました。
宮川さんと対談するのは、「カレーの奥義」の著者で「カレー探訪講座」で講師もされていた水野仁輔さんです。

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宮川さんは通常こういう対談は断っているそうですが、神保町のイベントだからということで引き受けられたそうです。
共栄堂さんは、大正13年(1924年)に神保町で創業して、今年で創業92年になります。宮川さんは、「ここまで、お店を続けてこられたのも、本の街神保町のおかげですので、神保町には頭が上がらないのですよ。」と言われていました。
宮川さんの神保町に対する深い愛情を感じます。

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共栄堂のカレーは味にこだわりがあるので辛さは一定で、一度食べたらくせになる味です。その味は、宮川さんは創業の時から変えていないと言っていました。作り方は、3代目として宮川さんが入ったときに大きく変えてますが、お客さんには味が変わったと気づかれないようにしていると言われました。
水野さんは、それだから長く続くんだと言われていました。

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宮川さんは、共栄堂のポークカレーとエビカレーとビーフカレー、タンカレーそれぞれカレールーを具に会うように変えていると言われました。ルーは同じと思ってポークカレーしか食べていなかったので、びっくりしました。
そこで、カレー探訪講座の仲間とイべントが終わってから、食べに行って確かめてみることにしました。

共栄堂についてみると宮川さんの対談イベントの帰りに共栄堂でカレーを食べに来ている人が押し寄せたのか、席は満席で、席が空くまで外で少し待ちました。
しばらくして、「席が空きました。」ウエートレスさんに言われたので店内に入りました。店内に入ると宮川さんが戻ってきています。宮川さんがトークイベントのとき、おいしそうに話されたエビカレーが「 まだありますかね」と聞いてみると、
「何とかします。」と言ってくれたので、

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エビカレーを注文しました。食べてみるとポークカレーと全然違いルーがエビの味のするカレーでした。これは全種類を食べてみるべきだなと思いました。

食事を食べ終わり、お店を出てカレー探訪講座の仲間と再会を祈って別れました。カレー探訪講座は今日で終わりです。

島田 敏樹

2016/07/14 18:54

靖国神社―みたままつり

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靖国神社のみたままつりが、7月13日~16日の間にあると聞き、見に行きました。
靖国通りを真直ぐ行き、俎板橋を超えると、靖国神社の大鳥居が見えます。
大鳥居の前まで行くと境内の中の大小の3万の奉納の提灯がぶら下がっていまいした。
境内の奥には、大村益次郎の像があり、その下で、盆踊りを踊っていました。

靖国神社の大鳥居から境内に入り、大村益次郎の像に向かって歩きした。H280713tyoutinnshimada.jpg

靖国神社は、戊辰戦争や西南戦争などの内戦の官軍の新政府の戦没者を慰霊するため建てられました。
そのため、高杉晋作、大村益次郎等長州藩や薩摩藩等の新政府の功労のあった維新の志士は祀られていますが、旧幕府軍の戦没者は祀られていません。

今年も境内に、屋台はありませんでしたが、それでも、浴衣を着た女性の二人組、外国人等が歩いていました。意外と若い人が多いようです。

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境内の左右には3万の提灯が、オレンジ色に光ぎっしりとぶら下がっていました。

盆踊りを、踊っている人がいる、大村益次郎の像の前に着きました。
夏目漱石が「三四郎」で、画家の原口が、この大村益次郎の像をこきおろします。
夏目漱石が靖国神社の前身の招魂社をあまり敬意を払わず、明治の文明批判しているのも、夏目漱石は江戸っ子だったので、薩長の新政府に対しては批判的だったのでないかと言われています。

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大村益次郎の像を過ぎ、第2鳥居の前に行くと、法被を着た人たちが、ねぶたを引いていました。今日は小雨だったので、ねぶたにビニーを被っていました。

夏目漱石は、「坊っちゃん」で、西洋かぶれの赤シャツを、江戸っ子の坊っちゃんが懲らしめて、江戸っ子の夏目漱石が、新政府が進める西洋化を皮肉ています。

大村益次郎の像の方に戻ると、売店がありました。屋台は出ていませんが売店はやっていました。売店でビールといか焼きを食べました。

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靖国神社は、日露戦争後戦没者の英霊を祀られるようになります。

ビールといか焼きを食べて、大鳥居に向かい大鳥居から、北の丸公園の方を見ると、常燈明台が、戦没者の英霊の向かい火をたいていました。

九段の坂を下って行き、九段下から東京メトロに乗って帰りました。

定本 漱石全集 岩波書店 は2016年12月刊行予定

島田 敏樹

2016/07/13 18:48

「三四郎」夏目漱石著

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漱石没後、100年を記念して、おさんぽ神保町が発足したコンシェルジュチームによる漱石のガイドツアー等をこの秋に開催します。ガイドツアーを楽しめるよう漱石の「三四郎」を読みました。

熊本の高校を卒業した三四郎が、東京帝国大学に入学するため、上京します。

当時の東京は、明治から41年たち日本の古い文化から西洋化が急速に進んでいました。H280723todennshimada.jpg
昔の古い建物は取り崩され、西洋式の新しい建物に建て替えられ、街にはチンチン電車が走り、電報ができ、三四郎の下宿はランプでしたが、電気も引かれ始めています。
四足は食べないと言われていた時代から、学生集会でナイフとフォークを使って牛肉を食べビールを飲み、上野精養軒でソップを吸うなど牛肉を食べていました。また淀見軒でライスカレーを食べる等洋食が食べられるようになります。
シェークスピアの「ハムレット」が、上演されるようにもなりました。
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個人主義、合理主義という西洋が300年かけて築き上げた思想を明治維新後40年でたどり着こうとしています。
明治維新前、孝(親)のため、忠(国)のため、仁(友)のため、義(社会)のためと、することなすことすべてが「他人のためだ」と言われていたのに、西洋から個人主義が輸入されると「自分のために」変わりました。
三四郎の大学の友人与太郎が寄宿させてもらっている英語教師広田は古い日本の文化を偽善、新しい西洋文明を露悪と言っています。

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その一方燈明台という古い燈台の傍に偕行社の新式の煉瓦造りの建物が建てられるということが日本社会を代表しているように、東京にはまだ古い日本の文化も混在していました。

新しい西洋文化と古い日本文化との混在する東京で、上京した三四郎は迷子(stray sheep)になります。

そんな中三四郎は、美しい女性と出会いました。

三四郎の通う東京帝国大学は、明治17年(1884年)夏目漱石が入学したときは、神田錦町3丁目にありました。三四郎が入学したときは、本郷に移されています。
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本郷に移された東京帝国大学の同郷の先輩の野々宮に会いに行った帰り、三四郎池の椎の木の下でしゃがんでいた三四郎は、扇子を持った里見美禰子と会います。

里見美禰子は女性解放を掲げる雑誌を創刊した平塚らいてうがモデルといわれています。
美禰子は、新しい時代の女性でした。

美禰子とは、野々宮の妹のよし子のお見舞いに再会し、広田の引越しの手伝いに行ったとき、一緒に部屋を片付けます。団子坂の菊人形に一緒に行き、日本帝国大学の運動会でも会います。三四郎美禰子は互いに好意を持ち出します。

美禰子も迷子でした。まだお見合い結婚が主流だった時代の中で、三四郎との恋愛に踏み切れず、兄の友人と結婚しました。

美禰子結婚後、美禰子をモデルとして描かれた絵の展覧会が開かれます。
三四郎が展覧会に行き絵を見ると、夏の終わりの暑い日、三四郎池の椎の木の下でしゃがんでいるときに、出会った扇子をもった美禰子が描かれていました。

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西洋の新しい文化と古い日本文化とが混在する明治の時代の中、江戸っ子の「坊っちゃん」は、西洋文化は相容れないと排斥し、上京した「三四郎」は古い日本文化と新しい西洋文化の間に迷子になります。

西洋文化と古い文化との間で、主人公が翻弄され「それから」、「門」「心」と漱石の作品は進んで行きます。

定本 漱石全集 岩波書店にて2016年12月刊行予定

島田 敏樹

2016/07/07 18:57

栄屋ミルクホール

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神田多町に用事があったので、昼は栄屋ミルクホールで食べることにしました。

ミルクホールは、牛乳を飲むことを推奨された明治時代に、主に牛乳を提供することを目的とした飲食店でした。

夏目漱石の「野分」でも、ミルクホールで主人公が牛乳を飲み、学生が洋菓子を食べて、蜜柑の皮をむきその汁を牛乳にたらしていました。
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「野分」が発表された明治40年頃では、ミルクホールは、牛乳と洋菓子、蜜柑などを出していたのでしょうか。

栄屋ミルクホールは、神田多町にあります。神保町から、靖国通り小川町を通過すれば、神田多町に着きます。
さっそく靖国通りを多町に向かうと、7月7日の七夕なので、靖国通り沿いには、笹の葉が飾ってありました。
晴天で汗ばむ天気なので、今夜は牽牛は、天の川を超えて織姫に会に行くことができそうです。

靖国通りを青物市場の碑のある通りを曲ると栄屋ミルクホールはありました。

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神田多町は昔青物市場があり、1日と8日に縁日が開かれた一八稲荷がある一八通りが賑わっていました。青物市場の碑があるこの通りが、一八通りかと思い地元の人に昔、聞いたことがあります。地元の人はここは多町大通りといい、この通りをさらに行き、突き当りの神田駅に向かう通りが、一八通りだといっていました。

栄屋ミルクホールに着くと、銅版のレトロな看板建築でした。
中に入ってメニューを見ると牛乳はなく、カレーライスとラーメン、おにぎりの軽食があります。
栄屋ミルクホールは昭和20年創業当時は、珈琲や甘味を提供していました。神保町最古の喫茶店茶房きゃんどるが昭和8年創業なので、この当時は喫茶店もあったはずですが、昭和20年には、ミルクホールも喫茶店のように珈琲を出すようになっていたのでしょうか。

栄屋ミルクホールは現在はカレーライスやラーメンを提供しています。H280707kare-ra-mennhimada.jpg

カレーライスを頼むと、もう2時近くになっていたので、「ライスはない」と言われました。

カレーラーメンを注文しました。
カレーラーメンは、東京ラーメンの汁とカレーがあっていて、懐かしい味がします。
もう人の流れが一段落していたので、調理していた店主の方が出てきて、水を入れてくれました。
ラーメンを食べ終わり、料金を払いお店を出ました。

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せっかくなので一八通りを通って帰ろうと思い、多町大通りを進み突き当りの一八通りを右に曲りました。
一八通りは江戸の時代から、青物市場として栄えていました。
昭和3年(1928年)に270年続いた青物市場は秋葉原に移ります。その秋葉原の青物市場も平成元年(1989年)に大田市場に移りました。

神田多町は、1丁目が昭和41年(1966年)内神田3丁目に変わりますが、2丁目だけが神田多町の町名に残り、現在神田多町は2丁目だけで、1丁目はありません。
また、神田多町は青物市場がなくなって88年たつ今でも、地元の人は、1日と8日に縁日が開かれ賑わっていたころの神田多町を思い一八通りで野菜直売イベント「一八マルシェ」を開催しています。

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そんな気骨のある神田多町の街の中で、栄屋ミルクホールは街の看板建築として佇んでいました。

島田 敏樹