2016/09/25 18:07

「こころ」夏目漱石著

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「こころ」からは、古本屋として神保町に創業した岩波書店の創業者岩波茂雄さんが、「出版業を始めたいので出版させてくれ」と、夏目漱石に頼み、岩波書店から出版されました。
「こころ」は明治天皇が崩御される少し前からの物語です。昭和天皇が崩御されたとき自粛ムードに包まれたように、明治天皇のご病気のときに卒業した「こころ」の語り手の私の卒業祝いが中止になります。
「こころ」が連載された大正3年は、平成の初めごろバブルだったように、第一次世界大戦がはじまり、大正バブルと言われました。成金という言葉も生まれ、「金をみるとどんな君主でも悪人になる」という時代です。

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物語は語り手の私は鎌倉の海で、先生と出会い親しくなり、東京に戻り家を訪問するようになったところから始まります。

先生は、「人を信用できない、私は自分も信用できないから、人も信用できないようになっているのです。」「普通の人間が、いざという間際になると、誰でも悪人になる。」といいました。
大学を卒業し、田舎に帰り父の危篤の床にいた私に遺書が届き、先生は学生時代にさかのっぼって、このように思うようになった訳を語ります。

先生が、学生のとき、父母が亡くなり、預けた遺産を信頼していた叔父に横領され、誰も人を信用できなくなり、もう2度と故郷には帰らないと決めて東京に出てきました。
それでもこのときはまだ他人は信用できなくても、自分だけは立派な人間であるという自信はありました。先生は、苦学生で困っている友人Kを助けようと自分の下宿している下宿に住まわせます。
先生が、好きになった下宿のお嬢さんに、Kが恋心を抱いていると先生に告白すると、Kを出し抜きます。先生はお嬢さんの母親に「お嬢さんを私にお嫁に下さい。」と談判しました。
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母親の承諾を得た先生は、有頂天になり、小石川の下宿から水道橋の方へ曲って、猿楽町から神保町の通りに出ます。いつもはこの界隈で古本屋をひやかすのが目的でした。

古本屋をひやかしていたので、その頃の神保町は書店街になっていたと思われます。先生の学生時代は神保町が書店街になっていった明治20年の後くらいでなないだろうか。その後「こころ」が連載される直前の大正2年は神保町は神田の大火事にみまわれ街は一変します。

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神保町から小川町の方へ曲り万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、菊坂を下りて小石川の谷へ下り先生は下宿に帰りました。
下宿に戻った先生は友を裏切ったことに気付きます。その2,3日後友は自殺しました。
自分だけは立派だと自信を持っていた先生は、叔父と同じ人間なんだと気づき自分も信頼できなくなり、抜け殻のようになって生きていきます。

数年経ち、明治天皇が崩御し、明治は終わりました。明治天皇とともに乃木将軍は殉死します。明治維新前の武士の世に生まれた純な老将軍の殉死は、お金の世の中になった当時の人に衝動を与えます。お金の損得よりも人として正しいことを行う、人と人との信頼を大事にするという明治の精神は明治とともに終焉したと。

自分を信じて命を預けてくれた部下や仲間を戦死させてしまった乃木将軍は、明治天皇をお守りする名目で生きてきました。明治天皇が亡くなった以上、部下や仲間の信頼を回復するため自らの命をたったのです。

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先生も友の信頼を回復するため、乃木将軍に殉じ、明治の精神とともに殉死しました。

明治の精神はその後、歪められ政治利用され敗戦を向かえます。敗戦後、高度成長の時代を経て、バブルの時代となり、リーマンショックにいたりました。
夏目漱石は「こころ」連載の2年後亡くなります。漱石の死後、岩波書店さんは全集は出版しました。

漱石の死後100年に渡り漱石の全集を出版し続けます。
今年の12月にも漱石全集を刊行する予定だそうです。

神保町では、漱石没後100年を記念して、神保町・漱石フェアを開催します。

島田 敏樹

2016/09/10 18:11

博報堂旧本社ビル

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博報堂旧本社ビル2階のタイ料理メナムのほとりへ、カレーを食べに行きました。
博報堂旧本社ビルは、関東大震災後の復興建築として、建てられた重厚な建物でした。

神保町は、夏目漱石の弟子でロシア生まれのセルゲイ・エリセーエフのマッカーサーに爆撃回避の進言により、戦災を免れ、このような震災復興建設が所々残っています。

博報堂旧本社ビルは日本で1,2を争う広告代理店博報堂さんの本社として、ニコライ堂を再建した岡田信一郎氏が設計し昭和5年(1930年)竣工され、昭和3年(1928年)に建てられた学士会館とともに街のランドマークとして存在感を示していました。
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博報堂さんが赤坂に本社を移転したことに伴い、旧本社ビルは平成21年(2009年)に再開発により取り崩されます。

博報堂旧本社ビルはテラススクエアの1部として、平成27年5月15日に、再建されました。

再建されたのは、警察通り側の表側に半分だけで、裏側は、ガラス張りのテラスになっています。テラスは森の中にあり、せせらぎが流れていました。

テラススクエアの1、2階は飲食店が入居しています。タイ料理メナムのほとりは2階にありました。
テラス側のエスカレーターで2階に上がり、店内に入り、恵比寿ビールとグリーンカレーを注文します。
恵比寿ビールは、明治23年(1990年)ドイツ人技師の下、国産ビールとして作られ販売されました。
夏目漱石の「二百十日」で、江戸っ子の豆腐屋圭さんと碌さんが阿蘇山を登るため熊本を旅行し宿で、ビールを注文すると、仲居さんに「ビールは御座いませんが、恵比寿ならございます。」と言われ、恵比寿ビールを注文し、半熟卵を肴にして飲んでいました。
夏目漱石が「二百十日」を書いた明治39年には恵比寿ビールは全国に普及していたのでしょう。
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夏目漱石は英国に留学したとき、さぞ本場英国のパブでビールを飲んだことと思いきや、実はお酒に弱く 「吾輩は猫である」でも猫がビールを飲んで甕に落ちて死んだことにしていました。

「二百十日」では、漱石のモデルの碌さんは、翌日二日酔いもせず、二百十日の大雨の中、阿蘇神社まで行き、阿蘇神社から阿蘇山の頂上を目指して歩きます。しかも阿蘇山に行く途中谷に落ちた圭さんを蝙蝠傘と帯で引き揚げました。
漱石はお酒はあまり飲めないが、恵比寿は、ビール(お酒)ではないといいってのんでいたのかもしれませんね。いずれにしても漱石は大の甘党なので、お酒より、甘いものが、好きでした。
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暫くしてビールとグリーンカレーを持ってきてくれました。グリーンカレーを酒の肴にビールを飲みました。
タイ料理は辛いというイメージがあり、昔タイ料理を食べに行ったとき、すごく辛く汗びっしょりかきましたが、メナムのほとりのカレーはそれほど辛くなく汗をかかずに食べられました。辛いのが苦手な人も大丈夫です。
カレーを食べ終わり、会計を済まして、外に出ました。今年の二百十日は8月31日に終わったのに、台風が来ると言われていました。

台風は熱帯高気圧に変わり、今夜は真っ暗な空に博報堂旧本社ビルがライトアップされていました。

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島田 敏樹

2016/09/04 18:21

「門」夏目漱石著

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「門」の時代になり、明治維新後登り調子だった日本の経済も日露戦争後の恐慌を迎え、明治維新前の道徳(武士道)が崩れ出します。社会や信頼よりもお金や個人が大事という時代になって行きました。

「坊っちゃん」では清を信頼し続けた坊っちゃんは、借りたお金を最後まで返しませんでしたが、おごられた氷水の代金を信頼関係が崩れた山嵐には叩き返します。お金より人間同士の信頼が重要でした。

「門」になると、宗助の叔父は、宗助が信用して預けた父の遺産を横領し、弟の小六の大学の資金も使ってしまいます。宗助は小六を引き取ることになります。

宗助はどうか。
宗助は、京都の大学時代の友人安井との信頼を裏切り、社会の掟に反して、その妻御米を自分の妻にします。

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そのため安井を、大学を退学させ、郷里に帰らせ、病気を羅らせ、満州に駆りやってしまいます。
宗助と御米も親を棄て、親類を棄て、友を棄て、一般社会を棄て、学校からも棄てられました。宗助は裕福な家で育ちましたが、薄給な役人となり、御米とひっそりと暮らします。御米は3回も流産し占い師に「罪が祟っているからだ」と言われました。

宗助の休日の淋みは単なる散歩か、勧工場(デパート)縦覧です。
このころ、駿河台下には明治25年(1892年)開業した「東明館」という勧工場があり、神保町のランドマークでした。
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宗助は、神保町を漂います。
電車に乗り、駿河台下でおり、本屋の前を通り過ぎ、時計屋を覗きこみ、蝙蝠傘屋の前を立ち留まり、西洋小間物を売る店を行き過ぎ、呉服店を立見します。京都の襟新の出店の窓硝子を眺め、角の大きな雑誌屋の軒先の新刊書物の広告を眺めます。

明治40年代の地図を見ると、路面電車はこの当時靖国通りを走っていましたが、靖国通りは裏神保町と言われ現在のような大通りではありませんでした。当時は、すずらん通りが、表神保町といわれて大通りでした。
明治39年に創業した鞄屋のレオマカラズヤは靖国通りにありますが、明治14年創業の三省堂書店、明治19年創業の富山房書房が、明治23年創業の東京堂書店等の書店。明治39年に神保町に移転した文房堂、明治39年創業の揚子江菜館等、「門」が連載された明治43年に開業していたお店は現在すずらん通りにあります。

宗助が、駿河台下から、漂ったのは靖国通りではなく、すずらん通りだったかもしれませんね。

そんな中、宗助の大家さんの坂井の下に坂井の弟と一緒に安井が満州から来るという話を聞きます。

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追い詰められた宗助は、悩み鎌倉の山寺の山門をくぐります。

西洋文化と日本の古い文化が混在する明治の時代に、「それから」の代助は家、友の信頼、社会の掟に反しても、自分個人の自然な意思に従い、友の妻との結婚を選びました。
「門」の宗助は、自然な意思に従い、友の妻と結婚したことにより、友の信頼や社会の掟に反したことに悩みもがきます。
漱石の作品は「こころ」へと進んで行きます。

神保町では、漱石没後100年を記念して漱石・神保町フェスを開催します。

島田 敏樹

2016/08/27 18:26

夏目漱石と神保町

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夏目漱石没後100年にあたる今年、神保町では、神保町・漱石フェス(街歩きガイドツアー、謎解き街歩きゲーム等)をこの秋開催します。
そこで、神保町の夏目漱石ゆかりの地を歩いてみました。

夏目漱石は、猿楽町の錦華小学校を卒業します。
錦華小学校は、小学校の統合により、現在、千代田区立御茶ノ水小学校になりました。御茶ノ水小学校の前には、夏目漱石の碑があります。
駿河台下から錦華通りを間直ぐ行き、猿楽通りを曲ったところにありました。

その後神田神保町の日比谷高校の前身の東京府第一中学に入学するも、1年で中退し、文学に興味を持ち千代田区三番町の二松学舎で漢学を学びました。

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兄に「文学は職業にならぬ」とさとされ、二松学舎を中退し、大学予備門(のちの東大)に入学するため、神田駿河台の成立学舎に入学し英語を学びます。

成立学舎は現在のアテネフランセの近くにありました。
アテネフランセは明大通りを御茶ノ水駅に向かって歩き、明大アカデミーコモンを左に曲り、マロニエ通り(とちの木通り)を真直ぐ、行ったところにあります。

明治17年(1884年)に、夏目漱石は、神田錦町3丁目の大学予備門(のちの東大)に入学しました。
大学予備門が本郷に移されたその跡地には、現在旧7帝大の同窓会の会館である学士会館が建てられています。

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入学時、夏目漱石は、猿楽町に下宿していたことから、その近くの小川町に小説「坊っちゃん」の主人公は、下宿し、当時小川町に間借りしていた東京物理学校(現東京理科大)に入学する設定になっていました。
正岡子規と知り合ったのもこの大学予備門です。

大学予備門を卒業した夏目漱石は、帝国大学文科大学英文科に入学します。
入学後、漱石は眼病を患い、井上眼科病院に通います。その病院の待合室で、背のすらっとした細面の美しい女性と初恋をしました。

その井上眼科病院は御茶ノ水駅の東口から聖橋の通りに出て右側にあります。
漱石はその女性と大学を卒業したら結婚してもいいと思っていましたが、女性の母親が漱石を根ほり葉ほり探り、「頭を下げて頼みに来い」と言われ嫌気がさして松山で教師になったと後年語っていました。
大学を卒業して、正岡子規の故郷の松山で中学の教師になった後、熊本の第五高等学校へ転任します。その後イギリスに留学しました。帰国後、東京帝国大学文科、明治大学予科の講師になり、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」等を書き、朝日新聞社への入社し、「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「こころ」等を連載しました。

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「こころ」は、大正2年(1913年)古本屋として神保町に創業した岩波書店の創業者岩波茂雄さんが、大正3年「出版業を始めたいので出版させてくれ」と、夏目漱石に頼み、岩波書店から出版されます。以後岩波書店は出版業を始めていきます。
岩波書店は、神保町交差点付近にある現在の岩波ブックセンターにありました。

夏目漱石の死後、その全集は岩波書店で出版しました。岩波書店は、夏目漱石の死後100年に渡り漱石の全集を出版し続けます。

今年の12月にも漱石全集を刊行する予定だそうです。

島田 敏樹

2016/08/13 18:31

ニコライ堂

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夏目漱石の「それから」で、代助が、友人の平岡にニコライ堂の復活祭の話をしていたのを読んでニコライ堂に行ってみたくなりました。

ニコライ堂は、正しくは日本ハリスト正教会東京復活大聖堂と言います。
エルサレムに始まったキリスト教は、ローマ帝国に広がりカトリックとなり、それに抵抗するプロテスタントに分かます。他方で、キリスト教はアジア、ギリシャにも広がっており正教会と言われていました。
その正教会を日本に初めて伝えたのが、ニコライです。
ニコライは、ロシアの神学校で、「日本幽囚記」読んで、
そこに書かれていた高田屋嘉兵衛の人柄にうたれ、日本に行くことを志します。ロシア領事館付の司祭に志願して、北海道函館に行きました。日本に来たニコライは、ニコライさんと言われ日本人に親しまれるようになります。

ニコライが、日本に来たのは明治維新前の文久元年(1861年)です。幕末のその当時函館にも攘夷志士がうようよしていました。沢辺琢磨もその一人でした。

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神田岩本町2丁目は、神田祭りの時の町名は、神田松枝町といい、神田祭りで唯一の山車がでる町会です。その神田松枝町のお玉ヶ池の傍に北辰一刀流を編んだ千葉周作の玄武館があり、その千葉周作の弟の定吉の道場に坂本龍馬が江戸で剣術の修行に出ていました。その頃龍馬のいとこで江戸で剣術修行をしていた沢辺琢磨が酔った勢いで、拾った金時計を質に入れてしまいます。
事が露見して、切腹されそうなところを坂本龍馬が逃がします。
江戸から逃げて、沢辺琢磨は函館にやってきました。沢辺琢磨は函館でニコライを斬ろうとしますが、ニコライの話や人格的雰囲気に触れ、逆に洗礼を受けて日本人初の司祭になります。

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ニコライの家には、海外へ脱出しようと函館に来ていた新島襄がニコライに日本語と日本文化を教えていました。
そんな新島襄の海外への脱出を沢辺琢磨が助けます。
新島襄は、数年前NHK大河ドラマの「八重の桜」の新島八重の夫です。神田錦町3丁目に生まれ、学士会館の南側に新島襄碑があります。後に同志社大学を創立しました。
そのため、同志社大学は毎年新島襄の誕生日の2月12日に学士会館の碑の前で碑前祭を行っています。
新島襄から、日本語や日本文化を習ったニコライは、一端帰国し財政的基盤をつくった後に、神田駿河台にニコライ堂をつくりました。

この神田駿河台のニコライ堂の建設には沢辺琢磨は尽力します。

ニコライ堂はロシア人シチュルーポフの設計の下、英国人ジョサイア・コンドルによって、明治17年(1884年)に竣工します。

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ニコライ堂に行くには、駿河台下から明大通りを御茶ノ水駅の方に行き、日大理工学部の手前の駿河台道灌道を真直ぐ行き、太田姫神社を左に曲り、池田坂を上って行きます。
池田坂のニコライ堂の隣りは昔中央大学があり、この坂は学生で溢れていました。
昭和55年3月中央大学は、多摩に移転し、今では中央大学駿河台記念館になっています。
池田坂をさらに真直ぐ行き、御茶ノ水東口を突き抜けると聖橋に出て、聖橋の右手の井上眼科病院があります。
夏目漱石の独身時代この病院の待合室で、背のすらっとした細面の美しい女性と初恋をします。

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この井上眼科病院を通り過ぎ右に曲るとニコライ堂の入り口がありました。

入口から聖堂の左側に事務所があったので、そこに入り売店で「正教会の手引き」を買って、聖堂の拝観の受付はこちらかと聞くと、聖堂の中だといわれ聖堂に入りました。
聖堂の受付で300円払うとロウソクとパンフレットを渡され、ロウソクをロウソク立に立て、聖堂内を見ると、ビザンティン様式の大ドームです
モスクワの赤の広場の聖ワシリイ大聖堂もドームなので、「ドームが正教会の特色なのでしょうか」とガイドさんに聞くと、
「ドームは神父や讃美歌等の声が建物全体に聞こえるようつくられたもので教会の様式ですが、正教会が思いついたものです。」と言われました。

荘厳な空気を感じる大聖堂から外に出ました。

ニコライ堂が建った後、日露戦争が起き、迫害を受けますが、ニコライは帰国せず踏みとどまり、その後生涯ロシアに帰ることなく、明治45年(1912年)日本でなくなります。

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ニコライが死亡した後、その翌年の大正2年(1913年)に沢辺琢磨は後を追うように亡くなりました。坂本龍馬によって助けられた命を、龍馬より長く生き、天寿を全うします。

ニコライ堂は大正12年(1923年)関東大震災によって倒壊しますが、昭和4年(1929年)岡田信一郎氏によって復興しました。
その後、ニコライ堂は、戦災を免れ、周辺が再開発により、高層ビルが建てられる中、高層ビルに埋もれるように佇んでいます。

島田 敏樹