2017/08/27 08:27

「幻の黒船カレーを追え」水野仁輔著

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事務所の帰りに、三省堂書店神保町本店に入ったら、水野仁輔さんの「幻の黒船カレーを追え」という本が並んでいるのを見つけました。 本をとってパラパラ読んでみると、日本のカレーはどこから来たかそのルーツを探す旅に出るお話です。 カレーはインドが発祥ですが、 玉葱を炒めて小麦粉を入れる日本のカレーは、インドからカレーが伝わった英国から、日本の明治維新の文明開化とともに伝わりました。 日本に伝えられた英国のカレー(黒船カレー)とはどのようなカレーだったのでしょうか。 

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並んでいる本のPOPに刊行記念として、水野仁輔さんのトーク&サイン会が三省堂書店神保町本店で、行われると書かれていました。 水野仁輔さんの本を買い、トーク&サイン会の会場へ向かいました。 会場に着くと、水野さんは「トークの前に、時間がないので、共栄堂さんでカレーを食べに行ったら、食べ始めてから会計が済んでお店を出るまで、10分しかかからなかった」とお話しているところでした。 共栄堂さんは注文したらすぐカレーが出てくるお店として有名です。時間がなく、急いで食事をしたいときは、私も共栄堂さんでカレーを食べることにしています。

 

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水野さんは、黒船カレーを求めて、明治維新後開港して西洋文化の窓口となった函館、新潟、横浜、神戸、長崎の文明開化の時代を旅しますが、見つかりません。 神保町も大学の街として西洋文化の窓口でしたが、カレーを食べられるようになるのは、学生にも洋食が食べられるようになる明治後半のことになります。 天皇の料理番の秋沢篤造が、華族会館を飛び出して神田錦町の裏通りのバンザイ軒でライスカレーを作っていたのは明治34年でしたし、九段上の淀見軒で、三四郎が与次郎にライスカレーをおごられたと書かれた夏目漱石の「三四郎」が、朝日新聞に連載されたのは明治41年でした。 水野さんは、日本帝国海軍が船内でカレーを食べていた英国海軍を模範にしたことから、黒船カレーを探しに軍港の室蘭、横須賀、舞鶴、呉、佐世保にもいきますが、何れも、見つかりませんでした。

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そこで、イギリスのロンドンへ黒船カレーを探しにいきます。 1893年(明治26年)に発表されたシャーロック・ホームズの「海軍条約文書事件」で、ハドスン夫人が朝食にホームズにチキンのカレー煮を出していましたから、この時代、黒船カレーは英国の家庭で食べられていたようです。 水野さんは、行ったときには、インドカレーしかなく、黒船カレーはありませんでした。 水野さんは、フランスやドイツにも行きましたが、英国のカレーはヨーロッパには伝わっていません。

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落胆して日本に帰った水野さんが英国で暮らしている友人の話から、再び、イギリスへ行きます。 黒船カレーは果たして見つかるのでしょうか。

「幻の黒船カレーを追え」水野 仁輔著 小学館

神保町書店にて販売中

 

島田 敏樹

 

 

2017/08/13 16:37

ペルセウス座流星群

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今年の、ペルセウス座流星群は8月12日の夜から13日にかけてが、見ごろだそうです。 流星群とは、彗星から放出される流出物質が、夜空に放射状に広がるように出現します。 靖国通りを真直ぐに行き、俎橋を渡ったところに、昭和61年(1986年)にハレーすい星を地球に接近した記念として創られた寿老人の彫刻が設置されていました。 ハレーすい星から放出する流出物質もみずがめ座流星群として5月に見ることができます。 

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神田すずらん通りの空にペルセウス座流星群が出現したら、美しく幻想的だと思い、神保町シアターの傍のキッチンジローで、ハヤシライスを食べにいった帰りに、 神田すずらん通りから、空を眺めました。 朝は大雨が降っていて、昼からは晴れたもののまだ雲が残っていたためか流星群は見えません。 東野圭吾さんの「流星の絆」という推理小説にペルセウス座流星群がでてきます。 数年前、TBSテレビでドラマ化されました。 二宮和也さん、錦戸亮さん、戸田恵梨香さんが3兄妹で主演し、 中島美嘉さんの「ORION」が挿入歌で、流れていました。

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洋食屋「アリアケ」の小学生の3兄妹功一、泰輔、静奈は、深夜、親に内緒で寝床から出て、ペルセウス座流星群を見に出かけたことから物語は始まります。 その日はあいにく雨が降ってきて、流星群は観ることができませんでした。 家に戻ってみると、両親は惨殺されていました。 犯人は見つからず、捜査は打ち切られ、 身寄りのない3兄妹は施設に預けられます。 3兄妹の長男の功一が18歳になり施設を巣立つときがきました。 3兄妹は、ある夜、あの時と同じように施設を抜け出して、獅子座流星群を観に行きます。 両親が殺された夜には見られなかった美しい流星群を3兄妹は見て、絆を確認し合いました。 事件から14年たち、事件の時効が近づいてきました。 そんなある日、次男の泰輔が両親が殺された夜、流星群を観に行った帰りに家の前ですれ違った男に出会います。 

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男は、大手洋食のチェーン店「とがみ亭」経営者、 「とがみ亭」の看板メニューのハヤシライスが「アリアケ」のハヤシライスと同じ味であったことが決め手で男が両親を殺した犯人だと確信しました。 3兄妹は、力を合わせて犯人を追いつめる計画を立てます。 犯人を追いつめていく計画は着々と進んで行きました。 妹が、両親を殺した犯人の息子に恋をしてしまったことを除いては。

「流星の絆」 東野圭吾 著  講談社 神保町書店にて販売中

 

島田 敏樹

2017/08/09 16:43

中央大学駿河台記念館

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神田駿河台に中央大学駿河台記念館という建物があります。 八王子に移転する前の中央大学の跡地の1部に昭和63年に創立100周年を記念して建てられました。 その1階には、第一ホテルが経営している、ランチバイキングのレストランプリオールと喫茶ポンヌフがあります。だれでも入れるらしいので、昼食を食べに行きました。 駿河台下から明大通りを御茶ノ水駅の方に行くと、明治大学があります。 明治維新後新政府は、西洋のどの国を模範にして近代国家をつくるか試行錯誤していました。

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明治4年江藤新平は司法省を創設し、フランスを模範にした民法典を編纂しようとします。 その後、司法省は、仏国から招いたボアソナードに民法典を編纂させるとともに、司法省法学校は創設しフランス法を教えさせます。 明治大学はフランス法を学んだ司法省法学校の1期生によって創立されました。 明大通りをさらに行くと、法政大学発祥の地の碑があります。 法政大学も、フランスから招いたボアソナードを教頭に迎えフランス法中心の大学として創立されました。

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法政大学の碑の前の小桜通りを曲り、池田坂に出てきニコライ堂の手前に駿河台記念館があります。 中央大学駿河台記念館に着き、喫茶ポンヌフに入ることにしました。 中央大学の前身の英吉利法律学校が創立されたのは神田錦町です。 司法省法学校と併合される前の旧東京大学は英国法が教授され、その卒業生中心に英国法を教授する英吉利法律学校を創立したのです。 これに対して、明治14年の政変を契機に政府はドイツ法を模範とすることを決め、法制度が整備していきます。 各大学も整備された日本の法制度を教育する大学になって行きます。 英吉利法律学校は東京法学院、中央大学と名前を変えながら、関東大震災後の大正15年(1926年)に駿河台校舎に移り、神田錦町には東京電機大学が建てられました。

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喫茶店ポンヌの中に入り窓際のカウンター席に座り、ビーフカレーを注文しました。 暫くして、サラダとビーフカレーを持ってきてくれました。カレーはやや辛く、ビーフは柔らかく煮込んでありました。 明治大学、法政大学、中央大学、東京電機大学ができ、神保町は学生の街になっていきます。 カレーを食べ終わると珈琲を持ってきてくれました。珈琲を飲んで会計を済ませて帰りました。

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昭和55年3月中央大学は、神保町を去り、八王子に完全に移転します。 中央大学の後に神田錦町に建てられた東京電機大学も平成24年(2012年)足立区に移転し、その跡地にはオフィスビルが建てられるそうです。

 

島田 敏樹

2017/07/17 16:52

活版TOKYO2017

活版TOKYO2017が、神保町三井ビルディングとテラススクエアぢで、7月14日、15日、16日におこなわれました。

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中に入ると、 若い女性が中心にすごい人でした。活版印刷に、これだけ多くの人が関心をもっているのかと思いました。

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活版印刷体験、活版マーケット、カッパンパーラー、ワークショップ等をやっていました。 さすがに、活字をすべて持ってきて、活字をひろうところからのワークショップはやっていませんでしたが、樹脂版の版型を使った活版印刷体験をしていました。

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活版マーケットは、活版印刷で作った文具などが売っていましたが、活版印刷の活字も売っていました。自分の名前の活字を探してみました。 3時から、テラススクエア2階で、まんまる〇さんのトークショウがあるので、いってみました。テラスハウスの2階は、ワークショップをやっていました。その奥にぎっしりと人が埋まっていました。

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島田 敏樹

2017/07/13 16:58

ティーハウスタカノ(活版コースターをゲット)

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ティーハウスタカノさんは、昭和49年(1974年)に創業した紅茶専門店です。 中国の緑茶がヨーロッパに伝わり、西洋の食文化と会うようにお茶の葉を完全に発酵させる紅茶になりました。 紅茶は、英国の植民地だったインドで栽培するようになり、英国で広く飲まれるようになります。 緑茶を飲んでいた日本にも、明治維新後紅茶が伝わり、明治42年(1902年)に朝日新聞に連載された夏目漱石の「それから」で主人公の代助は毎朝紅茶を飲んでいたと書かれていました。 戦後、紅茶は60年代ティバック紅茶、70年代缶紅茶、80年代ペットボトルの紅茶が販売されるようになり、手軽に紅茶が飲めるようになります。 そんな中でも、ティーハウスタカノさんは、本物のおいしい紅茶を提供するため、神保町で創業しました。 おいしい紅茶を飲みにティーハウスタカノさんに行ってみました。

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神田すずらん通りに出ると青空が広がり30度を超えるすごい暑さ、少し歩いただけで汗ばんできます。 神田すずらん通りの真中にTAKANOと書かれた看板がありました。 その看板の右の階段を降りて、扉を開けて中に入ると、砂漠の中のオアシスのように明るく涼しい店内です。 席に着き、メニューを見ると、紅茶専門店なのでセイロン茶、アッサムティ、ダージリン、中国茶、アイスティ等いろんな種類の紅茶が書かれていました。 アッサムティとスコーンを注文しました。 アッサムティは濃厚でミルクを加えても風味が落ちないので、ミルクティに適しています。

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暫くして、アッサムティの入ったティーポットとミルクピッチャ、ティーカップとティーソーサーを持ってきてくれました。 ティーポットは球形をしていました。 球形なのは、紅茶を入れるときに、茶葉が対流して美味しく入れることができます。 ミルクをたっぷり使えるようにミルクピッチャは大きめで、中のミルクは牛乳でした。 コーヒークリーム等では紅茶の風味を損なうことになるので、ミルクティのミルクは牛乳です。 ティーカップは口が広がっていました。口が広がっているティーカップは紅茶の香りが広がります。

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ティーポットから紅茶を注ぐ際には、茶葉がカップに入らないように目の細かいティーストレーナーもついていました。 ティ―ハウスタカノさんの美味しい紅茶のための1つ1つにこだわりが感じられます。 ティーポットから、カップに紅茶を注ぎました。 カップに紅茶を注ぐとき、紅茶を注いでからミルクを入れるか、ミルクを入れてから紅茶を入れるか英国で大論争になったそうですが、私はミルクを入れてから紅茶を注ぎます。 注いだ紅茶を、スコーンを食べながら飲みました。

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香り豊かなおいしい紅茶です。 会計を済ませて、活版コースターを貰って帰りました。 活版コースターは会計の祭、一言お声をかけて頂ければ、お渡ししてもらえるそうです。

 

島田 敏樹