2017/05/13 20:53

活版印刷三日月堂 ほしおさなえ著

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活版印刷所を舞台とした物語です。 神保町は本と出版社と、それに付随する印刷所の街でした。そこで、活版印刷三日月堂を読んでみました。 活版印刷は、明治維新後開国によって、入ってきた欧米の文物を多量に出版するため、盛大に行われてましたが、デジタル化の時代を向かえ、時代遅れになり減っていきました。 近年、文字に味わいのある活版印刷が見直され、名刺や栞、コースター等を活版で印刷する人が、しだいに増えてきています。

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トッパン印刷の印刷博物館で、活版印刷のワークショップをやっていました。 そこで、行われていた栞を活版印刷で印刷するワークショップに参加したことがあります。 ワークショップの部屋の中に入ると、一面活字の壁でした。 そこから活字を拾って行きます。 活字は文字が細かく探すのになかなか時間がかかりました。 職人さんは文字で探すのでなく、場所を覚えていて活字を拾っていくそうです。

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拾った活字で文字を組んでいきました。 文字を組むのに、文字をさかさまに組んで、微調整をし、綺麗に並べて固定します。 丸い円の印刷機に固定した活字を乗せて印刷しました。 活版印刷で印刷された栞の文字を見ると、活字が紙に刻まれて、綺麗に印刷されていました。 活版印刷も、名刺や、座右の銘、創業者の精神、俳句等心に刻んでおきたい言葉を印刷すると言葉に重みを増してくるような気がします。 「活版印刷三日月堂」の物語は 祖父がやっていた活版印刷を再開した弓子。 言葉の暖かさ伝えるため、消えていく言葉を刻むため、活版印刷所に人々はやってきます。 叔父が長年かけて作り上げた喫茶店「桐一葉」おいしい珈琲に落ち着いたレトロな雰囲気のお店。

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叔父が亡くなり、叔父の喫茶店の後を継いだ僕は 所詮「叔父の代わりに過ぎないのではないか」と悩みます。 「だれも、だれかの代わりなどなれませんよ。」弓子に言われ、 活版印刷で、叔父の好きだった俳句を刻んだコースターを創ることを思いつきます。

「桐一葉日当たりながら落ちにけり」 高浜虚子

「活版印刷三日月堂」星たちの栞 ほしおさなえ ポプラ文庫 神保町書店にて販売中

おさんぽ神保町と活版TOKYOのコラボ企画 神保町喫茶さんぽで活版コースターをゲット!

島田 敏樹

2017/05/06 21:03

こどもの本専門店ブックハウスカフェ

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5月5日にオープンしたこどもの本専門店ブックハウスカフェに行ってみました。 こどもの本専門店ブックハウスカフェはその名の通り、絵本などの児童書専門の書店です。 神保町唯一の新刊の児童書専門の書店は、以前ブックハウス神保町がありました。 そこでは、子供向けのイベントや企画も行われていて、読み聞かせやワークショップ等のイベントには、おさんぽ神保町のスタッフも参加させていただいていました。 2017年2月20日に閉店になってしましました。

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こどもの本専門店ブックハウスカフェが、2017年5月5日にオープンしたことにより、再び神保町に新刊の児童書専門の書店ができました。 こどもの本専門店ブックハウスカフェでは、子供向けのイベント等が行われる他、大きなソファが置かれた中央のスペースがカフェになっていて、珈琲が飲めます。 平日は11時から23時まで(土日祝日は11時から21時まで)オープンしていて、夜はお酒も飲めるそうです。いつも仕事で遅くなるお父さんにとっては仕事が終わった後、お酒を飲んで子供に絵本を買って帰れるので、助かります。

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地下鉄の神保町駅のA1から出て、神保町交差点に向かって靖国通りを真直ぐに行ったところにあります。天井の高い大きな洋風の建物の1階です。 こどもの本専門店ブックハウスカフェに着くと大きな門の前には、花束が並んでいました。 中に入ると、開店をお祝いする人でにぎわっています。 中央のソファでは珈琲やお酒を飲んだりして歓談して楽しそうでした。 店内には絵本や児童書が豊富にある他、絵本のキャラクターグッズ等もありました。 本棚を見ていると宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」見つけました。 昔読んだのですが、もう一度読みたくなりました。 「銀河鉄道の夜」は近年KAGAYAさんの映像がプラネタリウムで上映されて話題となりました。

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その画集の絵本もありました。中をパラパラみてみると、りんどうの花が咲く幻想的なカラーの風景を走る銀河鉄道が、描かれていました。 ますむらひろしさんの漫画の「銀河鉄道の夜」もありました。カンパネルラもジョパンニも猫の姿で描かれています。白黒の漫画もイメージを想像できて、面白いです。 その他に「銀河鉄道の夜 宮沢賢治著 金井一郎絵」がありました。物語をもう一度読みたかったので、それを買いました。 神保町に豊富に本がそろっている児童書専門の書店ができ、本の街でまた新しい本との出会いがあればいいなと思います。

 

島田 敏樹

2017/04/06 21:09

千鳥ヶ淵夜桜ライトアップ

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4月2日春の古本まつりの帰りに、ワゴンの古本を見ながら九段まで行き、北の丸公園で桜を見たら、まだ満開とは言えませんでした。 6日の本日は暖かく、桜は満開ではないかと思い、夜、千鳥ヶ淵緑道の夜桜のライトアップを見に行くことにしました。 千鳥ヶ淵緑道の夜桜のライトアップ等は、9日(日)まで延長されてます。

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靖国通りを真直ぐ行き、北の丸公園に行きました。北の丸公園田安門の入り口、靖国神社の鳥居の前には、すごい人の行列です。 北の丸公園を少し行くと、観光協会のテントが、まだあり、どら焼き「ちよ桜」が売っていました。 北の丸公園沿いに行き、左側に曲ると千鳥ヶ淵沿道です。 千鳥ヶ淵沿道の入り口はすごい人で、このまま行列に沿っていったら、緑道を通り抜けるのに何時間かかるのかとおもいましたが、千鳥ヶ淵緑道に入ると、すんなり前に進めました。

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千鳥ヶ淵緑道を歩いていると、桜並木が続きます。 ライトアップされた桜が、幻想的に見えます。 暫く行くと、千鳥ヶ淵の池の幅が広くなりました。 桜が、千鳥ヶ淵緑道と北の丸公演の双方から、水を求めて、千鳥ヶ淵の池にせり出しています。

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更に先に行くとボート乗り場の出口に着きました。ボートに乗っている人は一人もいなく、ロープでつながれていました。 ボートは桜まつりの期間は営業時間を夜間まで延長されていますが、 今日は風が強かったせいかお休みのようでした。 ボート乗り場の入り口はこの先ですという看板が、有りました。 ボート乗り場の入り口付近にトイレが、有り、その横で、さくら見守り隊のボランティアの人が、募金を呼びかけていました。 その付近の桜は他の桜と違い、濃いピンク色にライトアップされています。

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先に進むと、千鳥ヶ淵緑道は狭くなり、首都高速環状線が見えます。千鳥ヶ淵緑道は、終わりました。 イギリス大使館の方の交差点を渡り、半蔵門から、東京メトロに乗って帰りました。 千鳥ヶ淵緑道の入り口付近の観光協会のテントで買ったちよ桜を家に帰って食べてみると、カルガモの焼印のある桜の塩漬けの餡が入ったどら焼きでした。

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島田 敏樹

2017/03/18 21:17

神保町シアター―「私が棄てた女」遠藤周作原作

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遠藤周作の作品は、「沈黙」が「タクシードライバー」のマーティン・スコセッシ監督の映画化が話題となりましたが、神保町シアターでは3月4日~3月31日までの「夏目漱石と日本の文豪たち」で、遠藤周作の「私が棄てた女」の映画化が放映されると聞いて観に行きました。 遠藤周作は、「沈黙」のような純文学の他、「おバカさん」「ヘチマくん」「私が棄てた女」のようなユーモア小説や軽小説も書いています。 どちらも、弱者に寄り添うキリストがテーマです。 映画には遠藤周作も産婦人科医の役で浅丘ルリ子と共演していました。

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遠藤周作は、孤狸庵先生と言われ、ユーモアのあるユニークな性格で、テレビのトーク番組やCMに出演していました。 昭和61年にテレビのトーク番組「すばらしき仲間」で、落語家柳屋小三治さんや、女優の壇ふみさんと私の浪人時代について対談しています。その収録が「さぼうる」で行われました。その時の写真が「さぼうる」の壁に貼ってあります。 遠藤周作は、「失敗のない人生ほどつまらないものはないね。浪人しない人が、作家になれますか、落語家になりますか、女優になれますか」 と語っていました。当時は浪人する人が多く、そういう人たちを励まそうとする遠藤周作さんらしいお話しでした。

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「私が棄てた女」の映画の設定は1960年代でしたが、 原作では戦争を終わって3年後1948年(昭和23年)の2人の学生の神田での下宿生活から始まります。 親の仕送りはあてにできず、学校にはほとんど顔を出さず、アルバイトに忙しいのが当時の学生の生活でした。 主人公の「私は」御茶ノ水にあった全国学生援護協会で斡旋され、神保町3丁目の事務所にアルバイトに行き、稼いだお金で神田すずらん通りでおでんを食べます。当時、神保町は学生街だったようですね。 そんな大学生の私と「私を棄てた女」ミツとは週刊誌の明星のペンフレンド欄で、知り合います。最初のデートはミツと山小屋風の歌声酒場に行きます。 歌声酒場とは、アコーデオンピアノ等の楽器で、お客全員が合唱する酒場で都会に出てきた若者が仲間意識を求めてやってくる場所でした。

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遠藤周作が学生時代に通っていた昭和22年創業ミロンガヌオーバの前身ランボオも、作家と編集者のたまり場でした。当時の喫茶店や酒場は珈琲や酒を飲むだけでなく、人と人との出会いの場だったのです。 2度目のデートでミツの体を奪って別れます。大学を出た私は就職し要領よく生きていきます。 ミツはお人よしで、弱い人をほっとけず、騙されて風俗に身を落とし、弱いの人のために、老人ホームで老人を助ける仕事をすることになりました。 「沈黙」は、キリスト教の禁教の日本にやってきた司祭ロドリゴは、棄教を迫られ、拷問を受けた弱い信者を見捨てられず、棄教し踏み絵を踏みます。 私が棄てた女ミツは、「「沈黙」のロドリゴ司祭と同じように弱い人たちを救おうと寄り添って生きていきます。

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映画が終わって外に出ると星がまたたいていました。 遠藤周作の「おバカさん」の一場面を思い出しました。 「星がまたたいている… この地上の人間はみんなナポレオンのように利口で、強い人ばかりではない。この地上は利口で強い人のためだけにあるのではない。 自分やこの老いた犬のような― あの空の星の中にもきっと自分たちと同じような星があるにちがいない。 鋭い光を放つかわりに、弱々しい。しかしやさしい星もあるにちがいない。」

 

島田 敏樹

2017/02/12 21:21

学士会館―新島襄生誕の地(碑前祭)

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2月12日(日)新島襄の誕生日です。新島襄は、数年前NHK大河ドラマの「八重の桜」の新島八重の夫です。神田錦町3丁目に生まれ、後に同志社大学を創立しました。 そのため、神田錦町3丁目にある学士会館の前には碑があり、同志社大学は毎年新島襄の誕生日の2月12日に学士会館の碑の前で碑前祭を行っています。 碑前祭に行ってみると、学士会館の碑の前には同志社大学の卒業生等ですごい人でした。 新島穣は、上州安中藩江戸上屋敷、現在の神田錦町3丁目で天保14年(1843年)に生まれます。

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15歳の1958年幕府が日米修好通商条約を締結し開国し、また新島襄は17歳で幕府の海軍操練所に入る等したこともあり、海外に行くことの興味を持つようになりました。 海外へ脱出しようと函館に行きます。そのとき、函館では神田駿河台でニコライ堂を造ったニコライが布教をしていました。新島襄はニコライの家で日本語と日本文化を教えに行き、海外脱出の機会を伺い、坂本龍馬のいとこ沢辺琢磨が助けをかりて、アメリカに留学します。 新島襄のアメリカ留学中に明治維新を迎えました。 碑前祭では、まず讃美歌を歌いました。 同志社大学はキリスト教精神でできた大学です。 碑前祭が行われた学士会館は、東京大学発祥の地という碑もありました。

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明治維新後の開国により、西洋と交易するようになり、学問の中心は漢学から洋学になります。 漢方の医学館は明治2年に、儒教の昌平学校は明治4年に廃止されます。 代りに洋学校の開成所と西洋医学所を母体とし東京大学が発祥しました。 日本は儒教的な道徳観は失われ、西洋の物質文明が入ってきます。 そんな明治維新の新しい国家について、新島襄はアメリカで演説します。 「日本は革命により、新しい政府になりましたが、わが同胞の幸福は物質文明の進歩によってもたらせられるものでありません。」

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 「自分は日本でキリスト教主義の学校をつくるつもりです。その資金が得られないと日本に帰れない。」と それを聞いたアメリカの聴衆は感銘を受け、演説が終わった後、次々と寄付を申し出て立ち上がりました。 当時のアメリカは善意に満ち溢れていました。 明治7年に帰国した新島襄は、翌年キリスト教主義の学校同志社大学の前身同志社英大学を創立します。 碑前祭で碑の前で、同志社大学の学長がお話しになられていました。 建学の精神の「良心」教育を受け継いでいきますと 旧博報堂本社ビルの公園も新島襄にちなんで幼名の七五三太公園と名づけられています。

 

島田 敏樹