2016/10/30 21:49

神保町シアターーウォーナーの謎のリスト

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10月29日{土}~11月4日(金)に神保町シアターにて、「ウォーナーの謎のリスト」が上映されています。映画は戦災から日本の文化財を守った男ランドン・ウォーナーの映画ですが、神保町を救った男セルゲイ・エリセーエフも関連して出てきます。 10月29日{土}に神保町ブックフェスティバルや神田古本まつりが開催している中、神保町シアターに観に行きました。 初日だったので、映画監督の金高健二さんと、八木書店の八木壮一さん、北沢書店の北澤悦子さんが舞台挨拶をされました。 北沢書店さんは、今は外国書を取り扱っていますが、戦前は国文学を取り扱っていて、日本研究者のセルゲイ・エリセーエフと交流があり、戦後北沢書店さんを訪れたと、北澤悦子さんが語っていました。

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 八木さんは、神保町を戦災を免れたのはセルゲイ・エリセーエフがマッカーサーに進言したことによるのだ神保町では信じられていましたが、「そんなはずはないよ」という人もあり、「本当はどうなの」と映画監督の金高健二さんにお聞きになったことから、この映画がつくられたとのことです。 おさんぽ神保町で、神保町・漱石フェスを開催するので、その準備のため、セルゲイ・エリセーエフと交流のあった夏目漱石の作品を読みました。 「門」(明治43年作)で、主人公の宗助は散歩のため駿河台下で路面電車を降り、本屋の前を通り、とあり、「こころ」(大正3年作)で主人公の先生の学生時代、下宿から散歩で神保町を通過し、何時もこの界隈を歩くのは古本屋をひやかすのが目的だったと書いています。

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セルゲイ・エリセーエフが日本に留学した明治40年(1907年)から大正2年(1913年)神保町は本の街となっていて、夏目漱石はそのことを知っていたと思われ、セルゲイ・エリセーエフも夏目漱石などを通じてそのことを知っていた可能性があります。 映画は、監督の取材と、当時の物語で進行していきます。 パリ万国博で日本文化が気に入ったエリセーエフは日本に留学し夏目漱石の弟子になります。明るい性格から日本人に飛び込み日本と日本人がすっかり好きになりました。ロシアに戻ったエリセーエフは革命に遭い亡命し、アメリカのハーバード大学で教鞭をとります。ハーバード大学でランドン・ウォーナーと親交がありました。 ウォーナーはイェール大学の朝河貫一と日米開戦を避けようとルーズベルト大統領から天皇陛下に対する親書を画策しますが、日米開戦は避けられませんでした。 それでも、日本文化財を保護するためそのリストを作成するのです。

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果たしてそのリストや進言により、日本の文化財が守られたのだろうか、文化とは何か、国を維持していくとはどういうことか  考えさせられる映画でした。 映画を見終わり外に出てみると、神保町は神保町ブックフェスティバルや神田古本まつりの後片づけをしていました。 もし神保町が爆撃されていたら、神保町は本の街ではなく、別の街になっていたかもしれないなとおもいました、

 

島田 敏樹

2016/10/14 21:57

夏目漱石青春の地を行く

夏目漱石の神保町の街歩き「夏目漱石青春の地を行く」に参加しました。 講師は共立女子大の深津謙一郎教授です。まず共立女子大で、深津教授のレクチャーを受けました。

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それから、夏目漱石が、通った大学予備門の有った学士会館に行きます。学士会館では、東京大学発祥の地の碑に行きました。学士会館から、すずらん通りを通って、靖国通りに出て錦華通りを通って、夏目漱石が通った錦華小学校があったお 茶の水小学校へ向かいます。

 

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お茶の水小学校に着いたら副校長が出迎えてくれました。お茶ノ水小学校では、小学生が母校の先輩である漱石の著者「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「それから」の冒頭部分を暗唱しているそうです。 記念室に案内してもらいました。記念室には、夏目漱石のレリーフ、自筆原稿、初版本、熊本第五高等学校で夏目漱石の述べた祝辞が書かれています。

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錦華小学校を出て、錦華坂を登って山の上ホテルに出て、明治大学にでました。夏目漱石は明治大学でも講師をしていました。明治大学から明大通りを下り、井上眼科病院とニコライ堂に向かいました。井上眼科病院,は、漱石が初恋の背のすらっとした細面の美しい女性に出会った病院です。 ニコライ堂は「それから」で、代助が友人の平山にニコライ堂の復活祭の様子を語りました。池田坂から見ました。

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池田坂を下って行き、太田姫神社を曲り、駿河台下から、靖国通り出て、夏目漱石の本の有りそうな八木書店、玉英堂書店を見ました。 靖国通りを神保町交差点に向かい、岩波書店のあった岩波ブックセンターへ行きました。岩波ブックセンターから、岩波書店本社に行きました。岩波書店本社には漱石が書いた岩波書店の看板がありました。

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その他、岩波茂雄さんが夏目漱石に送った絵葉書、夏目漱石が朝日新聞渋川玄耳さんに宛てた書簡、夏目漱石の初版本、12月に刊行される漱石全集の見本などがありました。

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島田 敏樹

2016/10/09 17:56

神保町・漱石フェス岩波ホール前特設テント

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10月8日神保町・漱石フェスのテントが張られました。テントは、物販のテントと展示のテントの2つあります。

物販のテントには、謎解き街歩「夏目漱石と失われた100年物語」のキットを販売する他、以下の漱石販売グッズがあります。
まず、くまモンの募金箱があります。夏目漱石が、熊本の第5高等学校に講師として赴任し、熊本を舞台として小説「草枕」「二百十日」を書かれています。熊本震災復興のため募金箱を置きました。

その横に香日ゆらさんの漫画「先生と僕」「漱石とはずがたり」等が置いてあります。香日ゆらさんは漱石漫画を描かれており、謎解き街歩「夏目漱石と失われた百年物語」に漫画を提供して下さいました。

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隣りに絵葉書、漱石のサイン入りペン、一筆箋、夏目漱石のクリアーファイル、こころのノート、こころの岩波文庫のポーチ、神保町公式ガイド1~6、缶バッチのガチャポンなどがあります。

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展示テントは、漱石文庫や12月に刊行す定本漱石全集のご案内、
漱石とゆかりと神保町界隈の漱石ゆかりの場所が書かれた「さすが神保町漱石がいっぱい」
明治43年の古地図、岩波書店と夏目漱石関連年表、
10月29日{土}~11月4日(金)まで神保町シアターで放映される「ウォーナーの謎のリスト」の映画のご案内などがあります。
第二次大戦中、日本の文化財を救うため、空爆の目標から外す地域のリストを作成した外国人がいました。神保町もそのリストに含まれ戦災に遭わなかったと言われています。
リストを作成したラングドン・ウォーナーの謎のリストの映画です。本テントでもチケットを販売しています。

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岩波ブックセンターの特設テントは明日(10月10日)で終了します。

島田 敏樹

2016/10/02 18:02

「神保町界隈で漱石世界を辿る」予行街歩き

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10月12日に行われる街歩き「神保町界隈で漱石世界を辿る」の予行の街歩に参加しました。
11時に、マーティエチュード万世橋に集合し、簡単な説明を受けて出発しました。左の方がガイドさんです。

マーティエチュート万世橋は、休止していた明治45年竣工の万世橋駅を改装した商業施設です。
まず、マーティエチュード万世橋の中に入りました。中に入りジオラマを見ました。
ジオラマは竣工当時の万世橋駅が再現されており、日露戦争の時部下を助けにいって戦死した広瀬中佐の銅像がありました。賑わっていた様子が描かれています。

万世橋は、「こころ」の先生が青年時代下宿のお嬢さんのお母さんから、お嬢さんをお嫁さんにすることの承諾をえた後、散歩に出て渡った橋です。きっと漱石もパノラマに描かれた光景を見ていたのでしょう。

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マーティエチュード万世橋を出て、連雀町に行きました。

連雀町は現在の神田須田町1丁目と淡路町2丁目の界隈のことです。連雀町は、商人が商品を背中に背負う用具の連尺造りの職人が集まっていたことからこのように呼ばれました。

連雀町は戦災に逢わなかったので、戦前の古い建物が残っていました。蕎麦屋のまつや、甘味の竹むら、鳥すき焼きのぼたん、あんこう鍋のいせ源などの老舗名店の店舗が、戦前から続く古い建物です。
そして、夏目漱石が食べたという洋風かき揚げのある洋食屋の松栄亭へ行きました。
松栄亭から、近江屋洋菓子店に出て、神田志乃多寿司を通過します。車道の向かい側にワテラスがありました。

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靖国通りを向かうと淡路町交差点へ出ます。交差点を靖国通りを進むと、スポーツ洋品店の街小川町です。
小川町の小川広場に向かいました。小川広場は、小川小学校の廃校後、その跡地に出来た公園です。

小川広場は、毎年神田グランプリ―の会場になります。 神保町界隈はカレー店が多く、このようなカレーグランプリが開かれます。
小川広場から、古書会館に向かいます。

10月12日の本番では、中に入りますが、予行は日曜日で閉まっていて中に入れませんでした。

古書会館から、明大通りを渡り、漢陽楼の前を通過し、靖国通りを出ました。
靖国通りの古書店街は、予行の今日は日曜日なので、閉まっているお店が多かったようです。
本番の10月12日は平日なので、古書店は開いています。

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靖国通りからすずらん通りに進み、三省堂、文房堂、東京堂書店を通過し、小宮山書店の駐車場の通りを曲がり、ラドリオ、ミロンガヌオーバの通りを覗き、古瀬戸の通りを入りさぼうるの方に進みました。さぼうるを通過して、白山通りに出ます。

白山通りを渡り、岩波書店本社に行きました。10月12日の本番では、中に入り、岩波書店さんに貴重な夏目漱石関連の資料を見せてもらえます。予行の今日は通過するだけでした。

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岩波書店本社から学士会館へ着いて予行は終わりました。本番では、希望者は、学士会館で食事をすることになります。

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島田 敏樹

 

2016/09/25 18:07

「こころ」夏目漱石著

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「こころ」からは、古本屋として神保町に創業した岩波書店の創業者岩波茂雄さんが、「出版業を始めたいので出版させてくれ」と、夏目漱石に頼み、岩波書店から出版されました。
「こころ」は明治天皇が崩御される少し前からの物語です。昭和天皇が崩御されたとき自粛ムードに包まれたように、明治天皇のご病気のときに卒業した「こころ」の語り手の私の卒業祝いが中止になります。
「こころ」が連載された大正3年は、平成の初めごろバブルだったように、第一次世界大戦がはじまり、大正バブルと言われました。成金という言葉も生まれ、「金をみるとどんな君主でも悪人になる」という時代です。

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物語は語り手の私は鎌倉の海で、先生と出会い親しくなり、東京に戻り家を訪問するようになったところから始まります。

先生は、「人を信用できない、私は自分も信用できないから、人も信用できないようになっているのです。」「普通の人間が、いざという間際になると、誰でも悪人になる。」といいました。
大学を卒業し、田舎に帰り父の危篤の床にいた私に遺書が届き、先生は学生時代にさかのっぼって、このように思うようになった訳を語ります。

先生が、学生のとき、父母が亡くなり、預けた遺産を信頼していた叔父に横領され、誰も人を信用できなくなり、もう2度と故郷には帰らないと決めて東京に出てきました。
それでもこのときはまだ他人は信用できなくても、自分だけは立派な人間であるという自信はありました。先生は、苦学生で困っている友人Kを助けようと自分の下宿している下宿に住まわせます。
先生が、好きになった下宿のお嬢さんに、Kが恋心を抱いていると先生に告白すると、Kを出し抜きます。先生はお嬢さんの母親に「お嬢さんを私にお嫁に下さい。」と談判しました。
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母親の承諾を得た先生は、有頂天になり、小石川の下宿から水道橋の方へ曲って、猿楽町から神保町の通りに出ます。いつもはこの界隈で古本屋をひやかすのが目的でした。

古本屋をひやかしていたので、その頃の神保町は書店街になっていたと思われます。先生の学生時代は神保町が書店街になっていった明治20年の後くらいでなないだろうか。その後「こころ」が連載される直前の大正2年は神保町は神田の大火事にみまわれ街は一変します。

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神保町から小川町の方へ曲り万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、菊坂を下りて小石川の谷へ下り先生は下宿に帰りました。
下宿に戻った先生は友を裏切ったことに気付きます。その2,3日後友は自殺しました。
自分だけは立派だと自信を持っていた先生は、叔父と同じ人間なんだと気づき自分も信頼できなくなり、抜け殻のようになって生きていきます。

数年経ち、明治天皇が崩御し、明治は終わりました。明治天皇とともに乃木将軍は殉死します。明治維新前の武士の世に生まれた純な老将軍の殉死は、お金の世の中になった当時の人に衝動を与えます。お金の損得よりも人として正しいことを行う、人と人との信頼を大事にするという明治の精神は明治とともに終焉したと。

自分を信じて命を預けてくれた部下や仲間を戦死させてしまった乃木将軍は、明治天皇をお守りする名目で生きてきました。明治天皇が亡くなった以上、部下や仲間の信頼を回復するため自らの命をたったのです。

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先生も友の信頼を回復するため、乃木将軍に殉じ、明治の精神とともに殉死しました。

明治の精神はその後、歪められ政治利用され敗戦を向かえます。敗戦後、高度成長の時代を経て、バブルの時代となり、リーマンショックにいたりました。
夏目漱石は「こころ」連載の2年後亡くなります。漱石の死後、岩波書店さんは全集は出版しました。

漱石の死後100年に渡り漱石の全集を出版し続けます。
今年の12月にも漱石全集を刊行する予定だそうです。

神保町では、漱石没後100年を記念して、神保町・漱石フェアを開催します。

島田 敏樹