2017/05/28 09:32
第31回神田すずらんまつり
5月27日(土)に、第31回のすずらんまつりが、神田すずらん通りで開催されました。 神田すずらんまつりの第1会場は、和太鼓、スクエアダンス、吹奏楽コンサート、指笛コンサート、ライブパフォーマンス、デキシーランドジャズなど、音楽やダンスを中心に行います。 第2会場は、音福さんの津軽三味線、こども向けおはなし会、古書店のユルキャラ、コショタンとの記念撮影を行っていました。 前回は、第2会場が中心だったので、今回は第1会場中心に見て回りました。 11時になり、第1会場で、神田すずらん通りの理事の方のお話しで開会しました。 開会の御言葉が終わると、御茶ノ水小学校の和太鼓が始まります。
御茶ノ水小学校の小学生の演奏する太鼓のうち、御茶ノ水太鼓は小学校で代々受継がれていったものと小学生が語っていました。伝統の太鼓の力強い音が聞こえてきました。 和太鼓の後、スクエアダンスが始まります。ユアマイサンシャインの音楽に合わせて、華やかな衣装を着た男女が4名1組となってフォークダンスのようなダンスを踊っていました。 スクエアダンスを見ていたら、おさんぽ神保町のカメラマンの方が来年の春のすずらんまつりに乗せる写真を熱心に撮っていました。
昼に時間が空いたので、昼ご飯を食べに行きました。すずらん通りにワゴンが並んでいて露店が出ています。露店は、神保町界隈の名店が出店していました。 学士会館さんが肉サンドやメンチカツ、三幸園さんがハラミ肉の串刺し、肉まん、小林のおにぎりさんがおにぎり、ティーハウスタカノさんが紅茶にスコーン、SANGAMさんがインドカレー、豆香房さんが珈琲などが出店していました。 エスぺリアでロゼを買い、学士会館のビーフサンドとを三幸園でハラミ牛の串刺しを買って食べました。 エスぺリアの甘くないロゼが、牛肉に合いました。
暑かったので、のどが渇きタカノさんで、アイスティを買って飲みました。 露店は、飲食の他、囲碁、水彩画、似顔絵等のイベントや三省堂書店さんは、文房具でくまもんのグッズや、東京堂書店さんが本、ボヘミアギルドさんが古書や夏目書房のティシャツ、などが売っていました。 すずらん通りの真中に白バイが止まっていて、子供が乗って写真を撮っていました. 午後から、指笛の演奏会があります。鯉のぼりやみかんの花咲く丘など、5月の初夏の晴れたすずらん通りにすがすがしいメロディーが流れます。
明大生のバケツを使ったライブパフォーマンスが終わり、デキシーランドジャズのジャズの聖者の行進が聞こえてきました。 5時になり、すずらん通りのお祭りが終わりました。
商店会の皆様、神保町応援隊のボランティの皆様、ありがとうございました。
島田 敏樹
2017/05/28 09:28
ミロンガヌオーバ(活版コースターをゲット)
ミロンガヌオーバの前身のランボオは終戦(昭和20年)後間がない1947年(昭和22年)に、創業されます。 当時飲みに行くといえば、闇市の中の飲み屋で、焼酎やバクダンをあおるくらいでした。 そんな中で、ランボオは出版社によって創業され、小説家や芸術家のたまり場になります。 ドアを開けて、お店の中に入ると、野間宏。椎名麒三、梅﨑春生、植名雄高、武田泰淳といった作家の人たちがいました。戦後派(戦後新人としてデビューした作家)と呼ばれた作家の人たちです。 ランボウを訪れた学生時代の遠藤周作はそんな芸術家の集まる雰囲気に感激感動し、毎日通うようになりました。 ある日、作家の梅﨑春生に話しかけると、占い師のところに連れて行かれ、占い師に怠け者で作家にはなれないと占われます。 このことは、遠藤周作が「ぐうたら交遊録」に書いていました。
遠藤周作は、その後フランスに留学し、第3の新人として1955年(昭和30年)「白い人」で作家デビューします。 そのときはランボオはすでになく、タンゴの音楽の流れるミロンガヌオーバが開業していました。 神田すずらんまつりの翌日の日曜日ミロンガヌオーバに行ってみました。 祭りが終わり、神田すずらん通りは静けさを取り戻していました。
そんな神田すずらん通りの富山房の裏の通りにミロンガヌオーバがあります。 お店に着くと煉瓦造りのレトロなお店でした。 狭い入口を入ると中は広くアルゼンチンタンゴの音楽が流れるエキゾチックな雰囲気です。 店内には、バンドネオンが飾ってあり、レジの後ろには古いレコードと蓄音機が置いてありました。 お店は混んでいて、奥の部屋に通されました。
窓側の席に座りました。ウエイトレスさんがメニューを持って来てくれたので、ピザ・ミロンガとミロンガブレンドを頼みました。 暫くしてピザ・ミロンガを持ってきてくれました。 ピザは、サラミと卵が乗っている手づくのプレーンピザで、生地はパリパリというよりも、ふわふわした感じです。 ピザを食べ終わり、珈琲を持ってきてくれました。珈琲は炭火焙煎で、その場で豆を挽いて、創ってくれるので、時間がかかりますが、かなり美味しいです。
会計を済ませて、活版コースターを貰いました。ミロンガヌオーバの下の文字が、アルゼンチンタンゴのメロディのように右上がりに刻まれていました。
島田 敏樹
2017/05/22 09:37
学士会館―セブンズハウス(活版コースターをゲット)
学士会館は、昭和3年(1928年)、関東大震災後に建設された震災復興建設です。 学士会館の南脇に東京大学発祥の地の碑があります。 この場所で東京大学が発祥し、旧帝大7大学の同窓会の会館として、建てられました。 設計は日本橋高島屋や帝国ホテル新館を設計した高橋貞太郎氏で、関東大震災の教訓を生かして耐震・耐火の鉄筋鉄骨コンクリート造りになっています。 耐震・耐火の建物で、地震や火事には強くつくられていましたが、それゆえ、数奇な運命をたどりました。 戦争中日本軍に部屋を提供し、終戦後GHQに接収され,昭和31年(1956年)に返還されます。 日曜日の暑い日に学士会館に行ってみました。学士会館に着くと、茶色のスクラッチタイルに覆われたモダンでクラシックな建物です。
建物のクラシックな雰囲気から、半沢直樹等のテレビドラマの撮影に使われていました。 中に入ると1階のレストランには、中華の紅楼夢、和食の二色、フランス料理のラタン、軽食喫茶等のセブンズハウズがありました。これらは、一般の人も利用でき、旧帝大出身でない私でも利用できます。 活版コースターをゲットできるセブンズハウスの中に入ると、肘掛の付いた幅の狭い茶色の4つの椅子に囲まれている丸テーブルの席が並んでいました。、窓際のカウンターに座り、ウエイターさんが、注文を聞きに来たのでクラークカレーを注文しました。
クラークカレーは、明治9年に、旧帝大の札幌農学校(現北海道大学)に赴任したウィリアム・スミス・クラーク博士が、パン食を推進し、カレー以外の米飯を禁じたことから、ライスカレーが作られたという説から、生まれたカレーです。クラーク博士は札幌農学校の1期生との別れの際、「Boys be ambitios(少年よ、大志を抱け」と言ったのが有名です。札幌羊ケ丘展望台では、コートを着て遠方を指さしているクラーク像が立っています。 暫くして、サラダを持ってきてくれた後、クラークカレーを持ってきてくれました。カレーは、16穀米に、肉の他、ナス、にんじん、ジャガイモ、キュウリ、パプリカ、ブロコリー等野菜が豊富です。16穀米と肉野菜の具にカレーをかけて食べました。 カレーを食べ終わった後に、珈琲を持ってきてくれました。
珈琲を飲み終わり、会計を済まして、コースターを貰いました。コースターには、セヴンズハウスと学士会館の文字が窪んで刻まれています。学士会館の歴史の重みが刻まれているような気がしました。
島田 敏樹
2017/05/20 09:42
文房堂ギャラリーカフェ(活版コースターをゲット)
おさんぽ神保町23号に、ご協力頂いている喫茶店へ行って、飲食を注文すれば、活版コースターをゲットできる、おさんぽ神保町と活版TOKYOとのコラボ企画がありました。 ご協力して頂いているお店を見ると、テレビ雑誌でお馴染みのお店です。 どういう順番で行こうか迷うところですが、創業順に行ってみることにしました。 創業したのが一番古いのは文房堂さんです。明治20年、画材のお店として創業し、明治39年に神保町に移転しました。 もっとも文房堂さんの3階にギャラリーカフェができたのは新しく、オープンしたのは2016年8月です。 そこで、最初は、文房堂さんの中にあるギャラリーカフェに行ってみることにしました。
神田すずらん通りの文房堂さんに着くと建物はクラッシクな茶色の建物です。 大正11年(1922年)に現在のビルが建てられました。 大正12年の関東大震災で、正面外装部分のみ焼失を免れ、記念に保存し内部を建替えて現在に至ります。 震災後の直後の神保町の写真を見ると、建物がすべて倒壊する中、文房堂さんの建物だけが建っていました。 それから、震災復興して、時が流れて街がどんどん変化していく中、94年たった現在でも同じ姿で神田すずらん通りで存在感のある建物として建っています文房堂さんの中に入りました。
文房堂さんの5階7階はアートスクール教室も開講していますが、1階の入り口付近には雑貨、奥には画材を売っていましす。 文房堂さんの原稿用紙は有島武郎、中原中也、横溝正史等の作家に愛用されていました。その原稿用紙が現在復刻版として売られています。 また画材については、梅原龍三郎、藤田嗣治、東山魁夷などの画家に愛用されていました。 浮世絵や写真等の絵葉書が並んでいる階段を上っていき、3階に行きギャラリーカフェの扉を開くと店内は広く雰囲気のいいお店です。 窓際の席に座り、窓の外を見ると、神田祭りが終わり、次のお祭りの神田すずらん祭りの準備をしている神田すずらん通りの風景が見えました。
店員さんが注文を聞きにきたので、看板メニューの文房堂ドックのセットを頼みました。セットは、コーヒ―又は紅茶と野菜スープがついていて、ホットドックのお皿のわきにはサラダが載っていました。軽く昼食を済ませられます。ホットドックに挟まっているウィンナ―はパリッとした歯ごたえがあり、パンにあいました。食後に淹れたてのおいしい珈琲を飲んで、会計を済ませて、コースターを貰いました。
活版印刷で文房堂さんのロゴと文字が紙に刻まれているコースターをみて、本の街で活版印刷が盛大だった時代も、神保町の神田すずらん通りで文房堂さんの建物も佇んでいたんだなと感じました。
島田 敏樹
2017/05/13 20:53
活版印刷三日月堂 ほしおさなえ著
活版印刷所を舞台とした物語です。 神保町は本と出版社と、それに付随する印刷所の街でした。そこで、活版印刷三日月堂を読んでみました。 活版印刷は、明治維新後開国によって、入ってきた欧米の文物を多量に出版するため、盛大に行われてましたが、デジタル化の時代を向かえ、時代遅れになり減っていきました。 近年、文字に味わいのある活版印刷が見直され、名刺や栞、コースター等を活版で印刷する人が、しだいに増えてきています。
トッパン印刷の印刷博物館で、活版印刷のワークショップをやっていました。 そこで、行われていた栞を活版印刷で印刷するワークショップに参加したことがあります。 ワークショップの部屋の中に入ると、一面活字の壁でした。 そこから活字を拾って行きます。 活字は文字が細かく探すのになかなか時間がかかりました。 職人さんは文字で探すのでなく、場所を覚えていて活字を拾っていくそうです。
拾った活字で文字を組んでいきました。 文字を組むのに、文字をさかさまに組んで、微調整をし、綺麗に並べて固定します。 丸い円の印刷機に固定した活字を乗せて印刷しました。 活版印刷で印刷された栞の文字を見ると、活字が紙に刻まれて、綺麗に印刷されていました。 活版印刷も、名刺や、座右の銘、創業者の精神、俳句等心に刻んでおきたい言葉を印刷すると言葉に重みを増してくるような気がします。 「活版印刷三日月堂」の物語は 祖父がやっていた活版印刷を再開した弓子。 言葉の暖かさ伝えるため、消えていく言葉を刻むため、活版印刷所に人々はやってきます。 叔父が長年かけて作り上げた喫茶店「桐一葉」おいしい珈琲に落ち着いたレトロな雰囲気のお店。
叔父が亡くなり、叔父の喫茶店の後を継いだ僕は 所詮「叔父の代わりに過ぎないのではないか」と悩みます。 「だれも、だれかの代わりなどなれませんよ。」弓子に言われ、 活版印刷で、叔父の好きだった俳句を刻んだコースターを創ることを思いつきます。
「桐一葉日当たりながら落ちにけり」 高浜虚子
「活版印刷三日月堂」星たちの栞 ほしおさなえ ポプラ文庫 神保町書店にて販売中
おさんぽ神保町と活版TOKYOのコラボ企画 神保町喫茶さんぽで活版コースターをゲット!
島田 敏樹