2017/03/18 21:17

神保町シアター―「私が棄てた女」遠藤周作原作

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遠藤周作の作品は、「沈黙」が「タクシードライバー」のマーティン・スコセッシ監督の映画化が話題となりましたが、神保町シアターでは3月4日~3月31日までの「夏目漱石と日本の文豪たち」で、遠藤周作の「私が棄てた女」の映画化が放映されると聞いて観に行きました。 遠藤周作は、「沈黙」のような純文学の他、「おバカさん」「ヘチマくん」「私が棄てた女」のようなユーモア小説や軽小説も書いています。 どちらも、弱者に寄り添うキリストがテーマです。 映画には遠藤周作も産婦人科医の役で浅丘ルリ子と共演していました。

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遠藤周作は、孤狸庵先生と言われ、ユーモアのあるユニークな性格で、テレビのトーク番組やCMに出演していました。 昭和61年にテレビのトーク番組「すばらしき仲間」で、落語家柳屋小三治さんや、女優の壇ふみさんと私の浪人時代について対談しています。その収録が「さぼうる」で行われました。その時の写真が「さぼうる」の壁に貼ってあります。 遠藤周作は、「失敗のない人生ほどつまらないものはないね。浪人しない人が、作家になれますか、落語家になりますか、女優になれますか」 と語っていました。当時は浪人する人が多く、そういう人たちを励まそうとする遠藤周作さんらしいお話しでした。

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「私が棄てた女」の映画の設定は1960年代でしたが、 原作では戦争を終わって3年後1948年(昭和23年)の2人の学生の神田での下宿生活から始まります。 親の仕送りはあてにできず、学校にはほとんど顔を出さず、アルバイトに忙しいのが当時の学生の生活でした。 主人公の「私は」御茶ノ水にあった全国学生援護協会で斡旋され、神保町3丁目の事務所にアルバイトに行き、稼いだお金で神田すずらん通りでおでんを食べます。当時、神保町は学生街だったようですね。 そんな大学生の私と「私を棄てた女」ミツとは週刊誌の明星のペンフレンド欄で、知り合います。最初のデートはミツと山小屋風の歌声酒場に行きます。 歌声酒場とは、アコーデオンピアノ等の楽器で、お客全員が合唱する酒場で都会に出てきた若者が仲間意識を求めてやってくる場所でした。

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遠藤周作が学生時代に通っていた昭和22年創業ミロンガヌオーバの前身ランボオも、作家と編集者のたまり場でした。当時の喫茶店や酒場は珈琲や酒を飲むだけでなく、人と人との出会いの場だったのです。 2度目のデートでミツの体を奪って別れます。大学を出た私は就職し要領よく生きていきます。 ミツはお人よしで、弱い人をほっとけず、騙されて風俗に身を落とし、弱いの人のために、老人ホームで老人を助ける仕事をすることになりました。 「沈黙」は、キリスト教の禁教の日本にやってきた司祭ロドリゴは、棄教を迫られ、拷問を受けた弱い信者を見捨てられず、棄教し踏み絵を踏みます。 私が棄てた女ミツは、「「沈黙」のロドリゴ司祭と同じように弱い人たちを救おうと寄り添って生きていきます。

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映画が終わって外に出ると星がまたたいていました。 遠藤周作の「おバカさん」の一場面を思い出しました。 「星がまたたいている… この地上の人間はみんなナポレオンのように利口で、強い人ばかりではない。この地上は利口で強い人のためだけにあるのではない。 自分やこの老いた犬のような― あの空の星の中にもきっと自分たちと同じような星があるにちがいない。 鋭い光を放つかわりに、弱々しい。しかしやさしい星もあるにちがいない。」

 

島田 敏樹

2017/02/12 21:21

学士会館―新島襄生誕の地(碑前祭)

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2月12日(日)新島襄の誕生日です。新島襄は、数年前NHK大河ドラマの「八重の桜」の新島八重の夫です。神田錦町3丁目に生まれ、後に同志社大学を創立しました。 そのため、神田錦町3丁目にある学士会館の前には碑があり、同志社大学は毎年新島襄の誕生日の2月12日に学士会館の碑の前で碑前祭を行っています。 碑前祭に行ってみると、学士会館の碑の前には同志社大学の卒業生等ですごい人でした。 新島穣は、上州安中藩江戸上屋敷、現在の神田錦町3丁目で天保14年(1843年)に生まれます。

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15歳の1958年幕府が日米修好通商条約を締結し開国し、また新島襄は17歳で幕府の海軍操練所に入る等したこともあり、海外に行くことの興味を持つようになりました。 海外へ脱出しようと函館に行きます。そのとき、函館では神田駿河台でニコライ堂を造ったニコライが布教をしていました。新島襄はニコライの家で日本語と日本文化を教えに行き、海外脱出の機会を伺い、坂本龍馬のいとこ沢辺琢磨が助けをかりて、アメリカに留学します。 新島襄のアメリカ留学中に明治維新を迎えました。 碑前祭では、まず讃美歌を歌いました。 同志社大学はキリスト教精神でできた大学です。 碑前祭が行われた学士会館は、東京大学発祥の地という碑もありました。

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明治維新後の開国により、西洋と交易するようになり、学問の中心は漢学から洋学になります。 漢方の医学館は明治2年に、儒教の昌平学校は明治4年に廃止されます。 代りに洋学校の開成所と西洋医学所を母体とし東京大学が発祥しました。 日本は儒教的な道徳観は失われ、西洋の物質文明が入ってきます。 そんな明治維新の新しい国家について、新島襄はアメリカで演説します。 「日本は革命により、新しい政府になりましたが、わが同胞の幸福は物質文明の進歩によってもたらせられるものでありません。」

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 「自分は日本でキリスト教主義の学校をつくるつもりです。その資金が得られないと日本に帰れない。」と それを聞いたアメリカの聴衆は感銘を受け、演説が終わった後、次々と寄付を申し出て立ち上がりました。 当時のアメリカは善意に満ち溢れていました。 明治7年に帰国した新島襄は、翌年キリスト教主義の学校同志社大学の前身同志社英大学を創立します。 碑前祭で碑の前で、同志社大学の学長がお話しになられていました。 建学の精神の「良心」教育を受け継いでいきますと 旧博報堂本社ビルの公園も新島襄にちなんで幼名の七五三太公園と名づけられています。

 

島田 敏樹

2017/01/28 21:25

聖橋

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湯島聖堂を出て、ニコライ堂に向かう橋が聖橋です。 聖橋は、昔のTBSテレビドラマ「JIN」のオープニングに出てきた橋で、橋の上から、電車が何本も交差する御茶ノ水駅が見えます。 その御茶ノ水駅前後には大きな病院や医科大学がたくさんあり、「JIN」に出てきた脳外科の医者仁は、この近くの順天堂病院をロケ地とした病院に勤めている設定になっていました。そこの非常階段から、落ちて幕末の江戸にタイムスリップしたことになっています。

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江戸時代、診療所は徳川吉宗によって建てられ山本周五郎原作「赤ひげ診療譚」の舞台となった現在の水道橋小石川植物園にあった小石川療養所があり、また医学校は神田佐久間町に漢方医の医学館がありました。 医学館は火事で焼け神田佐久間町から浅草橋に移転します。移転した浅草橋に碑がありました。 医学館は、開国の年に西洋医学所ができ、次第に衰えて明治2年になくなります。 「JIN」では、タイムスリップした仁がペニシリン製造に成功し、江戸で評判となったことから、医学館が、仁が身を寄せている緒方洪庵頭取の西洋医学所と対立することになっていました。

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西洋医学所は、神田松枝町(神田岩本町2丁目)のお玉ヶ池の傍にありました。 神田松枝町に行くと種痘所として成立した西洋医学所の碑があります。 「JIN」では、緒方洪庵が「西洋医学所は最初伊東玄朴先生たちが私財を投じて作ったもので、そこで、玄朴先生も緒方洪庵も『人殺し、出て行け』と石を投げられながら種痘の道を切り開いてきた。」と語っていました。 そんな西洋医学所に身を寄せていた仁でしたが、 無許可で腑分けした西洋医学所の佐分利の責任を取って緒方洪庵が辞めようとしているのを知り、佐分利の身代わりに責任を取って医学所を去ると言います。 緒方洪庵は現代医学の知識を持つ仁を引き留めますが、仁は緒方先生こそ残るべきだと言います。

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「分かりやすく利益になるものは、ほうっておいても進化していきますが、石を投げられ、私財を投じても人を助けたいと思う医の心を伝えていくことは難しいことです。」 医の心未来に伝えてくださいね と言って 仁は西洋医学所を去りました。 聖橋の道路を渡り、橋の上から順天堂病院を見上げました。病院や医科大学が高さを競い合うように建っていました。

 

島田 敏樹

2017/01/08 21:30

湯島聖堂

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神田明神に初詣に行く途中の聖橋を渡ったところに湯島聖堂がありました。 外堀通りから、正門を通って中に入ることにしました。 奈良時代は、平城京に東大寺等の大寺、各地に国分寺を建て、仏教を国家鎮護に利用しますが、 江戸時代は、儒教を武士の封建時代を支えるために利用します。 徳川綱吉が、湯島に孔子の聖堂を建て、附属の官立の学問所を設け、幕臣の子弟や諸藩の者、浪人などに儒教を学ばせました。 正門から仰高門から中に入ると、孔子銅像がありました。孔子銅像は孔子像としては世界最大の銅像です。 中国の春秋戦国時代に、国が争い各国の君主は競い合って国を強く豊かにするため知識のある人材を求めます。

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 そのため、君主に政策を提案して諸国を旅する学者学派、諸子百家が登場しました。 諸子百家の儒教の創始者として孔子が出てくるのです。 儒教は、子は親を敬い、家臣は主君を敬い、主君は仁と徳に基づいて政治を行う。江戸の武士の封建制度を支える学問でした。 孔子像から、先に進むと入徳門があり、入徳門から中に入ると水屋がありました。 儒教は日本では宗教というよりは学問として紹介されますが、 儒教の創始者孔子は聖人として、その霊を祀る建物である孔子庵に入るには水屋で浄める必要があります。

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湯島聖堂附属の官立の学問所は、明治維新後、新政府が接収し、昌平学校となり、大学大学校へとなります。 そのため日本大学発祥の地とされています。 入徳門から中に入ると階段があり、階段を上ると杏壇門があります。 杏壇門を入ると、受験シーズンということもあり、合格祈願の受験生等がいました。 その先に大成殿が見えました。 大成殿は、御賽銭箱が置いてあり、外から拝むことができますが、中にも入ることができ、中には孔子像の他、孟子・顔子・曽子・子思の四賢人像があります。

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合格祈願の鉛筆等も売っていました。 論語素読等の文化講座のパンフレットが置いてありました。 湯島聖堂の附属の大学は、明治4年に廃止されますが、文化講座として続いているそうです。 大成殿を出て、聖橋門から、聖橋に出てました。 明治維新後、封建制は廃止され、神保町に大学をつくられ、学問の中心が儒教から洋学になり、西洋の平等自由個人主義の考え方が輸入されましたが、 人に対する思いやり(仁)、損得を考えず正しいことを行う(義)、人の信頼を守る(信)といった武士の世から続く儒教的な考え方は現代でも大切なものではないでしょうか。

 

島田 敏樹

2016/12/17 21:34

ぽるとがる酒場―ピリピリ

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駿河台の太田姫神社の傍に、ぽるとがる酒場―ピリピリと書かれたお店があります。 神田教会のザビエルの遺骨を見て、はるばるポルトガルより布教のためやってきて、異郷の地で命を落としたザビエル思い、ポルトガル料理を食べに行きました。 中に入ると、女性が二人厨房にいました。 お店は、姉妹二人でやられていて、妹さんが厨房を担当しています。 カウンター席に案内され、お姉さんがメニューを持ってきてくれました。 ポルトガル料理には、あまりなじみがないので、どういう料理があるのか聞いてみました。

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アロシュ・デ・ボルボという蛸の炊き込みご飯がありましたが、これはスペインのパエリアとリゾットの中間みたいなもので、ポルトガルではタコの他にいろんな魚貝類を入れて食べるそうです。 また、鱈の消費量が多いので、バカリャウ(干し鱈)のコロッケが定番だそうです。 鰯等も食べられますが、魚ばかりでなく、肉も食べられ、若鶏の炭火焼きも食べられるそうです。 アディラワインと自家製ピクルス、えびのガーリックオイル煮、パンを頼みました。 ザビエルが、日本に来たのはポルトガルの大航海時代の主役の時代です。 大航海時代はエンリケ航海王子が、アラビア人から学んだ航海術で大西洋から、インドを目指して航路を見出そうとしたところから、始まりました。 そしてアフリカの南端の喜望峰に達し、ヴァスコ・ダ・ガマにより、インド西南海岸に到達します。 このことにより、シルクロードを通ってヨーロッパに運ばれていたインドの香辛料が、大西洋を航路として運ばれるようになり、これまで、漁村にすぎなかったポルトガルは商業の中心として栄えます。 お姉さんが、アディラワインとピスタチオを持ってきてくれました。 アディラワインのアディラは大西洋南の島でエンリケ航海王子が入植を開始して、大航海時代の第一歩を踏み出した島です。 ポルトガルは、インドについで明とも交易するようになりました。

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さらにインドのゴア、中国のマカオを拠点として、日本の種子島に漂着し、鉄砲を伝え、日本とも交易するようになります。南蛮文化として日本に大きな影響を与えました。 その後、植民地を広げすぎたポルトガルは衰退していき、スペインに併合されます。 鎖国していた日本は明治維新後開国し、西洋文化を学ぶため神保町に大学をつくるのですが、ポルトガルはその主役ではありませんでした。 暫くして、ピクルスとえびのガーリック煮とパンを持ってきてくれます。えびとガーリックは合い、えびは皮まで食べてしまいました。

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食べ終わり会計を済まして外に出ると、 5月の太田姫神社のお祭りの時は、青々としていた銀杏の木は、黄色に色づいていました。 12月は忘年会のシーズンです。大航海時代の主役として、日本にやってきたポルトガルを思い、「ぽるとがる酒場ピリピリ」で忘年会を開かれてはいかがでしょうか。

 

島田 敏樹