2017/01/08 21:30
湯島聖堂
神田明神に初詣に行く途中の聖橋を渡ったところに湯島聖堂がありました。 外堀通りから、正門を通って中に入ることにしました。 奈良時代は、平城京に東大寺等の大寺、各地に国分寺を建て、仏教を国家鎮護に利用しますが、 江戸時代は、儒教を武士の封建時代を支えるために利用します。 徳川綱吉が、湯島に孔子の聖堂を建て、附属の官立の学問所を設け、幕臣の子弟や諸藩の者、浪人などに儒教を学ばせました。 正門から仰高門から中に入ると、孔子銅像がありました。孔子銅像は孔子像としては世界最大の銅像です。 中国の春秋戦国時代に、国が争い各国の君主は競い合って国を強く豊かにするため知識のある人材を求めます。
そのため、君主に政策を提案して諸国を旅する学者学派、諸子百家が登場しました。 諸子百家の儒教の創始者として孔子が出てくるのです。 儒教は、子は親を敬い、家臣は主君を敬い、主君は仁と徳に基づいて政治を行う。江戸の武士の封建制度を支える学問でした。 孔子像から、先に進むと入徳門があり、入徳門から中に入ると水屋がありました。 儒教は日本では宗教というよりは学問として紹介されますが、 儒教の創始者孔子は聖人として、その霊を祀る建物である孔子庵に入るには水屋で浄める必要があります。
湯島聖堂附属の官立の学問所は、明治維新後、新政府が接収し、昌平学校となり、大学大学校へとなります。 そのため日本大学発祥の地とされています。 入徳門から中に入ると階段があり、階段を上ると杏壇門があります。 杏壇門を入ると、受験シーズンということもあり、合格祈願の受験生等がいました。 その先に大成殿が見えました。 大成殿は、御賽銭箱が置いてあり、外から拝むことができますが、中にも入ることができ、中には孔子像の他、孟子・顔子・曽子・子思の四賢人像があります。
合格祈願の鉛筆等も売っていました。 論語素読等の文化講座のパンフレットが置いてありました。 湯島聖堂の附属の大学は、明治4年に廃止されますが、文化講座として続いているそうです。 大成殿を出て、聖橋門から、聖橋に出てました。 明治維新後、封建制は廃止され、神保町に大学をつくられ、学問の中心が儒教から洋学になり、西洋の平等自由個人主義の考え方が輸入されましたが、 人に対する思いやり(仁)、損得を考えず正しいことを行う(義)、人の信頼を守る(信)といった武士の世から続く儒教的な考え方は現代でも大切なものではないでしょうか。
島田 敏樹
2016/12/17 21:34
ぽるとがる酒場―ピリピリ
駿河台の太田姫神社の傍に、ぽるとがる酒場―ピリピリと書かれたお店があります。 神田教会のザビエルの遺骨を見て、はるばるポルトガルより布教のためやってきて、異郷の地で命を落としたザビエル思い、ポルトガル料理を食べに行きました。 中に入ると、女性が二人厨房にいました。 お店は、姉妹二人でやられていて、妹さんが厨房を担当しています。 カウンター席に案内され、お姉さんがメニューを持ってきてくれました。 ポルトガル料理には、あまりなじみがないので、どういう料理があるのか聞いてみました。
アロシュ・デ・ボルボという蛸の炊き込みご飯がありましたが、これはスペインのパエリアとリゾットの中間みたいなもので、ポルトガルではタコの他にいろんな魚貝類を入れて食べるそうです。 また、鱈の消費量が多いので、バカリャウ(干し鱈)のコロッケが定番だそうです。 鰯等も食べられますが、魚ばかりでなく、肉も食べられ、若鶏の炭火焼きも食べられるそうです。 アディラワインと自家製ピクルス、えびのガーリックオイル煮、パンを頼みました。 ザビエルが、日本に来たのはポルトガルの大航海時代の主役の時代です。 大航海時代はエンリケ航海王子が、アラビア人から学んだ航海術で大西洋から、インドを目指して航路を見出そうとしたところから、始まりました。 そしてアフリカの南端の喜望峰に達し、ヴァスコ・ダ・ガマにより、インド西南海岸に到達します。 このことにより、シルクロードを通ってヨーロッパに運ばれていたインドの香辛料が、大西洋を航路として運ばれるようになり、これまで、漁村にすぎなかったポルトガルは商業の中心として栄えます。 お姉さんが、アディラワインとピスタチオを持ってきてくれました。 アディラワインのアディラは大西洋南の島でエンリケ航海王子が入植を開始して、大航海時代の第一歩を踏み出した島です。 ポルトガルは、インドについで明とも交易するようになりました。
さらにインドのゴア、中国のマカオを拠点として、日本の種子島に漂着し、鉄砲を伝え、日本とも交易するようになります。南蛮文化として日本に大きな影響を与えました。 その後、植民地を広げすぎたポルトガルは衰退していき、スペインに併合されます。 鎖国していた日本は明治維新後開国し、西洋文化を学ぶため神保町に大学をつくるのですが、ポルトガルはその主役ではありませんでした。 暫くして、ピクルスとえびのガーリック煮とパンを持ってきてくれます。えびとガーリックは合い、えびは皮まで食べてしまいました。
食べ終わり会計を済まして外に出ると、 5月の太田姫神社のお祭りの時は、青々としていた銀杏の木は、黄色に色づいていました。 12月は忘年会のシーズンです。大航海時代の主役として、日本にやってきたポルトガルを思い、「ぽるとがる酒場ピリピリ」で忘年会を開かれてはいかがでしょうか。
島田 敏樹
2016/12/06 21:37
神田教会―フランシスコ―ザビエルの遺骨
錦華通りを真直ぐに行ったところに神田教会というカトリック教会があります。 聖堂は日本にキリスト教を伝来した聖フランシスコ―ザビエルを捧げる聖堂として、その遺骨が安置されています。 ヨーロッパでプロテスタントが台頭し始め、危機を感じたカトリックが世界各地に布教を広めるためイエズス会を結成します。イエズス会のザビエルは、ポルトガルから、布教のため戦国時代の日本にやってきました。 ザビエルの人柄と布教のため命懸けで遠方から船に乗って異郷の地にやってきた信仰心に心を打たれ信者がどんどん広まっていきます。 更に信者を増やそうと、中国を目指し上川島に行き、病で命を落としました。
遺体はインドのゴアに安置され、10年に一度公開され分骨もされます。2000年にその遺骨が、神田教会に安置されるようになりました。 大学受験の時、年号を語呂合わせで覚えました。キリスト教伝来の年号は「以後よく(1549年)なった」と覚えます。キリスト教はザビエルの伝来後、語呂合わせのようには、必ずしもよくはなりませんでした。 ザビエルの死後、信長・秀吉によって天下統一され戦国時代は終わり、その間ポルトガルとの交易とともにキリスト教は広まっていきますが、事件が起きます。(サン・フェリペ号事件) ポルトガルの後を追ってスペインも日本に来ます。そのスペインの船が遭難に遭い聴取した際、水先案内人が「スペインが広大な領土を獲得できたのは、キリスト教の布教と宣教師のおかげ」と発言「日本もいずれスペインの植民地になるだろう」と挑発しました。
それを聞いた秀吉はキリスト教を禁止します。 秀吉の次の徳川の時代に、新たに台頭してきたプロテスタントの国オランダが日本に来て交易します。オランダは、カトリックの国のスペイン、ポルトガルの植民地政策の危険性を進言し、キリスト教の禁止いっそう強められました。 明治維新後も、キリスト教は禁止されていたため、神田教会の前身はラテン学校として始められます。 明治6年キリスト教の禁教令が解かれ、フランシスコザビエルの聖堂として建てられたのが、神田教会の始まりです。 明治6年キリスト教の禁教令が解かれた後、キリスト教は受け入れられていきました。 キリスト教はその信者を除いては唯一絶対神として受け入れられませんでしたが、538年に仏教が伝来してた時に、神教と共存し、現在では神教が慶事、仏教が弔事とすみ分けられたように、 キリスト教も、キリストの降誕祭をクリスマスとして広く一般に祝われるようになりました。
島田 敏樹
2016/11/23 21:42
錦華公園―リス出没
夏目漱石の卒業した錦華小学校(現御茶ノ水小学校)の隣りに錦華公園という小さな公園が、有ります。 昔、美術学院に通っていたころの松任谷由美さんのお気に入りの場所で、「白い朝まで」で歌われました。 その公園には、得地直美さんの「神保町―モノクロ町画集」に「リスがいるらしい」と書かれています。 錦華公園は都心のビルの谷間にある小さな公園で、周囲には森がなく、森のようなものと言えば、離れたところにある皇居ぐらいです。 もしリスが、錦華公園にいるとしたら、森のある皇居から錦橋を渡って、千代田通りを通り、靖国通りに出て、そこから錦華通りに入り、錦華公園にたどりついたことになりますが、靖国通りの古書店街には、よくぶらぶらと歩いていますが、靖国通りで、リスが歩いているところを見たことなど一度もありませんでした。
たしかに錦華坂の下には、リスの秋の味覚のどんぐりがいっぱい落ちていましたが、 たぶんリスはいないだろう、いたとしても得地直美さんの「神保町―モノクロ町画集」が描かれたときにはいましたが、今はいないだろうと思っていました。 勤労感謝の日に、勤労者の自分に感謝の意味で、マロニエ通り(とちの木通り)のトラテリアレモンで、ランチを食べました。 トラテリアレモンの前身は喫茶レモンで1968年開業です。 マロリエ通りの入り口の駿河台が60年代日本のカルチャラタン(パリの大学地区)といわれた学生街で、パリのシャンゼリエ通りのようにマロニエの街路樹があるマロニエ通りに面した喫茶店だったことから、70年代が窓から見える街路樹が美しいと歌われたガロの「学生街の喫茶店」のモデルではないかと言われた喫茶店でした。 その後、1978年イタリアレストランとして開設されます。 そこでスパゲッティジェノベーゼを食べ、当時を偲び喫茶店時代からあった苺とグレープフルーツのジュースを飲んだ後、錦華坂を通って帰ろうと、マロニエ通りを左に曲り錦華坂を下ります。 錦華公園の前に来ると、、錦華坂の下から、つながって上に伸びている電線を走って来る物陰がみえました。 物陰は途中で止まり、素早く明治大学の方へ消えていきます。よく見るとそれはリスでした。
リスの家族が、まだ錦華公園に残っていないか、錦華公園の中に入ってみました。 錦華公園に入り、見上げると明治大学のリバティタワーが見え、10月中旬におさんぽ神保町の夏目漱石の街歩きで、錦華小学校にお邪魔した時は、まだ青々としていた紅葉や銀杏の葉は、ここのところの冷え込みで赤や黄色に染まっていました。
島田 敏樹
2016/11/15 21:45
神保町―モノクロ町画集
「本屋図鑑」で絵を描かれた得地直美さんが描いたモノクロ町画集「神保町」夏葉社さんを神保町から先行販売中です。 神保町ブックフェスティバルで、夏葉社さんのワゴンに置いてあり、神保町の書店にも並んでいたので、気になっていたので、東京堂書店さんで買いました。 東京堂書店さんは、「神保町」の先行販売を記念して、軍艦Tシャツも販売しています。 軍艦とは、東京堂書店さんの1階のレジの前にある平台で、棚ざしや面陳列の本棚の下にぐるりと話題の新刊本等が、平積みされているのが、船のようなので、そう呼ばれています。 その東京堂書店さんの軍艦が、以前得地直美さんの「本屋図鑑」で描かれたので、記念のTシャツになったのです。 モノクロ画集「神保町」は、2010年から2016年の神保町の風景をモノクロで描かれていました。 神保町の風景を描かれたものに、下田裕治さんが描かれた「神田百景」(第一通信社発行、創栄社/三省堂発売)があります。
1984年から2008年までの間の神田の風景を描かれたものです。 下田さんの描かれた時代はちょうどバブルが始まったころで、神保町もバブルに飲み込まれてしまうのではないかと心配されていました。 その頃の神保町の変化は激しく、そこに描かれた風景はもう見ることができなくなってしまったものもあります。 平成12年(2000年)の神保町再開発で、ロシア料理バラライカ、神保町の洋服屋がなくなり、茶房きゃんどるも再開発したビルの中に移転しました。 駿河台下を少し行ったところにあった大正13年(1924年)頃建設された靖国通りの12連長屋も、今では2連になっています。 俎橋から靖国通りの神保町3丁目に佇んでいた昭和2年(1927年)に建設された九段下ビルも平成24年(2012年)に解体されました。
得地直美さんの描かれた2010年頃からの神保町も、時代の流れと共にゆっくりですが、変化しています。 その時代の描かれた風景も今では見ることができなくなったしまったものもあります。 白山通りにあったスーパーのFjiyaはなくなり、今はドラックストア―になっています。 白山通り側のすずらん通りの入り口にあった床屋さんもなくなり、今では、銀だこになっています。 得地直美さんの描かれた神保町は、失われつつある神保町の風景を記録したものとして、大事にとっておきたいと1冊です。 また、描かれた神保町の風景は、神保町の魅力的な場所の素晴らしい風景を味わいのあるモノクロで描かれているものなので、この本をもってその風景を探しに神保町の街を歩いてみるのも楽しいと思いました。
「神保町」モノクロ町画集 得地直美著 夏葉社は 神保町書店にて、販売中です。
島田 敏樹