2009/04/03 10:05

田山花袋『東京の三十年』(その3)

ここしばらくの間、「デジカメの不調→パソコンの故障」とトラブル続きで、だいぶ更新を滞らせてしまいました。すみません。引き続きぼちぼち更新を続けていきますので、今後ともよろしくお願いします。

さて、田山花袋『東京の三十年』の続きです。しばらくぶりなので、前回までの話を簡単にさらっておきましょう。1886(明19)年、田舎から上京した「花袋」少年は、文学で身を立てようと、東京で新知識の吸収に励みます。その主な舞台が、神田から九段にかけての一帯でした。『東京の三十年』には、この頃の神田・九段界隈の様子がよく描かれています。

たとえば、花袋は当時、仲猿楽町(今の神保町二丁目周辺)にあった英語学校に通うため、自宅のある「牛込の奥」から毎日、今の靖国通りを往復しています。「文学散歩」らしく、私たちも「花袋」少年が歩いた道をたどってみましょう。本文は前回も引用しましたが、「その頃」と「今」とを対照するために、必要なところはもういちど引用していきます。

まず、神保町から靖国通りを九段に向かって歩いて行きましょう。1927(昭2)年竣工の名建築・九段下ビルを右に見て、日本橋川に架かる俎橋を渡ると、そこはもう九段「下」。文字どおり坂「下」にあり、目の前には九段坂が伸びています。

九段坂は、明治の中頃までは、今よりももっと急坂で、坂の上からは浅草辺まで見通すことができたそうです。また、比較的なだらかな坂になったあとも、坂下には、大八車の後押しをして日銭を稼ぐ「立ちん坊」と呼ばれる労働者がたくさんいて、この界隈には、彼らをあてこんだ木賃宿や飯屋が多くあったといいます。たとえば、国木田独歩の「窮死」(1907(明40)年)という短編小説は、今でいう「ワーキンプ・プア」、あるいは「ホームレス」の人々の実態を描き出した佳作ですが、その冒頭は、「九段坂の最寄にけちなめし屋がある」という一文から始まります。ちなみに独歩は、花袋の盟友といわれる短編小説の名手で、有名な「武蔵野」のほかに、「運命論者」「正直者」なども面白いです。この機会にぜひご一読ください。

さて、九段坂を途中まで上ってうしろを振り返ってみます。下の写真は、坂の中腹から「浅草」方面を望んだ「今」の様子。俎橋(高速道路の下に架かってます)あたりまで見通すのがやっとです。

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写真の左側には、今では、「北の丸スクエア」や「東京理科大」の大きな建物が並んでいますが、『東京の三十年』によれば、明治の頃、このあたりには鳥屋の舗(みせ)があったようです。

九段の坂の中ほどの左側に今でも沢山鳥のいる鳥屋の舗(みせ)がある。それがその頃にもあって、私と弟とはよく其処に立っては、種々(いろいろ)な鳥をめずらしそうにして眺めた。インコ、鸚鵡、カナリア、九官鳥、そういう鳥のいる籠に朝日が当って、中年の爺がせっせっと餌を店の前で擂鉢ですっていた。目白、ひわなどもいれば、雲雀、郭公などもいた。(「明治二十年頃」)

上でいう鳥屋とは、今でいうペットショップみたいなものでしょう。江戸期から明治期にかけて、町人たちの間で鳥を飼うことが風流な趣味として流行っていたようで、たとえば、谷崎潤一郎『春琴抄』のなかにも、女主人公・春琴の「小鳥道楽」の様子が描かれています。

話を戻して再び坂を上ります。坂を上りきったところの大きな鳥居が靖国神社。『東京の三十年』では、次のように描かれています。

大村の銅像、その頃はまだあの支那から鹵獲(ろかく)した雌雄の獅子などはなかった。丁度招魂社の前のあの大きな鉄製の華表(とりい)が立つ時分で、それが馬鹿げて大きく社の前に転がされてあるのを私は見た。そしてそれが始めて立てられた時には、私は弟と一緒に、往きに帰りに、頬をそれに当てて見た。夏のことなのでその鉄の冷たいのが気持が好かった。

引用文の1行目にある「鹵獲(ろかく)」とは「戦利品として分捕る」という意味。大鳥居の周辺に鎮座するこの獅子は、1895(明28)年、日清戦争に際して日本軍が中国の遼東半島から運んできたものだといいます。また、「大村の銅像」というのは、もちろん、今も参道にそびえる大村益次郎像のことです。大村益次郎(182469)は近代兵制の樹立者で、銅像は1893(明26)年に建てられました。ちなみにこの像は、戊辰戦争(186869)の際、明治政府に敵対した彰義隊が立て籠る上野の山の方角を、いまも睨みつけています。

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(写真は靖国神社境内の唐獅子と大村像です。大村像は上野の山を睨んでいます)

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上の写真は第二鳥居。夏の暑い日、「花袋」少年が頬を当ててその冷たさを楽しんだ鳥居は、入り口の大鳥居でなく、こちらの第二鳥居です。1887(明20)年竣工。本文には「鉄製」とありますが、正確には「青銅製」。青銅製としては日本最大の鳥居だそうです。

靖国神社周辺はいまがちょうどお花見シーズン。『東京の三十年』を片手に、120年前の靖国神社周辺に思いを馳せてみるのも楽しいのではないでしょうか。次回は、九段坂を下って日本橋川沿いに「花袋」少年の足跡を訪ねます。

深津

2009/02/03 10:11

田山花袋『東京の三十年』(その1)

今回取り上げるテキストは『東京の三十年』(岩波文庫)。田山花袋(たやま・かたい)の自伝的エッセイです。

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花袋は、今では、これまでここで取り上げた漱石や村上春樹にくらべ地味な作家かもしれません。しかし、日本の近代文学史にとっては、非常に重要な作家のひとりです。「実物」を手にとったことはないけれど、文学史の試験勉強で覚え(させられ)た、代表作「蒲団(ふとん)」の名前だけは記憶にある、という方も案外多いのではないでしょうか。

田山花袋(本名:録弥)は1872(明治4)年、現在の群馬県館林市生まれ。没落士族の出身で、16歳の時、就職した兄を頼って一家で上京。困窮の中、文学の道を志します。このあたりは帝国大学出のエリートだった鷗外や漱石と大きく違うところです。(じつは録弥は10歳の時、丁稚奉公として東京に出されるのですが、不始末を仕出かして田舎に帰されています)。

なんとか文壇に食い込んだ花袋は、当初は感傷的な美文作家として知られますが、いっぽうで、当時最新流行の外国文学を積極的に摂取。これが「描写」という技法に結実し、日本の近代文学は実質的にここから始まります。 "明治30年代"末のことです。

ちなみに「描写」というのは、ココロ(目に見えないもの)を風景や表情・動作など目に見えるものに置き換えて間接的に表現する描法です。たとえば、今の小説(ライトノベル)なら、「クリスマスなのに、彼女(彼氏)がいなくて淋しい」とベタにココロのありようを表現するのでしょうが、これが「描写」文体だと、「彼(彼女)は、幸せそうに寄り添うカップルから目をそむけながら、イルミネーションの街を足早に通り過ぎた。彼(彼女)の頬を冷たい風が打った。」......という感じになります。文学史的には、まず、後者の文体が創出されてから、そののちに、前者のような文体が定着していくのですが、文学の専門的なハナシになるのでここで止めます。

いずれにせよ、"明治40年代"の花袋は文壇の強力なリーダーのひとりであり、『蒲団』、『田舎教師』といった代表作もこの時期発表されます。この頃はちょうど漱石の活躍時期――『三四郎』『それから』『門』の前期三部作の頃です――とも重なっており、今でこそ、漱石が日本文学の本流という印象がありますが、この時期にかぎっていえば、花袋が本流、漱石は傍流という見方が当時の文壇の一般的な見方だった、というのも面白いところです。

さて、『東京の三十年』です。このエッセイは、1917(大正6)年に刊行された自伝的エッセイで、修業時代の思い出が東京の街の変遷に重ねあわされる形で回想されています。次回はこの中から神保町界隈に関わる記述を拾い出してみましょう。

深津

2009/01/28 10:13

村上春樹『ノルウェイの森』(その5)

またしばらく更新が滞ってしまいました。お許しください。『ノルウェイの森』は今回で最後です。

さて、『ノルウェイの森』の中でも、学生運動について触れられています。そして、表面的に見れば、「僕」は学生運動に対しかなり冷淡です。たとえば、第四章には次のような一節があります。

ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきて、ノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。何故ならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。(略)僕は彼らのところに行って、どうしてストをつづけないで講義に出てくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。(略)僕はしばらくのあいだ講義には出ても出席をとるときには返事をしないことにした。

背の高い学生がビラを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立って演説をした。ビラにはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体で「欺瞞的総長選挙を粉砕し」「あらたなる全学ストへと全力を結集し」「日帝=産学共同路線に鉄槌を加える」と書いてあった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を駆りたてる力もなかった。(略)この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。

ここで興味深いのは、「僕」がみせる妙なこだわりです。「僕」は、言行不一致の学生活動家を責め、彼らへのあてつけとして、出席を取られる際返事をしません。学生活動家に対する「僕」の批判は正論ですが、しかし前述したように、キズキの死以降、「僕」の言葉も彼らに負けず劣らず空疎でした。学生活動家を批判する「僕」は、この点に気づきません。いや、むしろそれを否認したいから、学生活動家の言行不一致に対し、必要以上に過敏な反応を示すのかもしれません。過剰な反応の背後には、必ず、何かを(強調することで)隠したい、否認したいという気持ちが働きます。この場合、「僕」が否認しようとしているのは、「僕」と学生活動家(学生運動)が実は同質の危機を抱えている、という現実です。いわば、根っこの部分を共有しているのです。

ところで、この小説は、37歳の「僕」の回想形式になっている、という話をいちばん最初にしました。ここに賭けられているのは、37歳の「僕」の自己救済です。そのために「僕」は、1970年の直子の死を描く必要がありました。直子の死を契機に、20歳の「僕」が(危機から)救われたからなのですが、この仕組みについて説明すると長くなるので省きます(興味がある方は、私が以前書いた『ノルウェイの森』論をご覧ください。『ジェンダーで読む 愛・性・家族』(東京堂出版)という本に収められています。なんだか宣伝めいて恐縮ですが)。

ただ、ここで確認しておきたいのは、37歳の「僕」の自己救済をかけた回想が、(敗北した)学生運動の記憶が固着した場所を、直子と直子(=正しさ)を追いかける、つまり正しさから疎外された僕を歩き回らせる場面からはじめられているという点です。それはまるで、何かを確認する「儀式」のようですらあります。

そういえば、『ノルウェイの森』のエピグラフには、「多くの祭の(フエト)ために」とあります。ここでいう「祭(フエト)」が何を意味するのか、テキストには何も書かれていません。しかし、「祭(フエト)」、「日常からの解放」、「狂騒」という連想で、これが1970年前後の若者の政治反乱(=「敗北した」学生運動)を指している気がしてなりません。だとすると、『ノルウェイの森』のエピグラフは、80年代後半の「今」から、70年前後の「祭(フエト)」を悼んだものであるようにも読めます。そして、この「悼む」という行為が、神保町界隈を含む神田・本郷辺を歩く「僕」と直子の身振りに集約的に象徴されているように感じるのです。

冒頭にも記したように、『ノルウェイの森』という小説は、バブル期の日本ではオシャレな恋愛小説として受容されました。しかしこの小説に底流しているのは、やはり、「祭(フエト)のあと」という主題です。じっさい韓国や中国では、若者の政治反乱(フエト)が終わったあと、この小説が熱狂的に支持されたといいます。じつはそのほうが、この小説の本質をついているのかもしれせん。

昨年、『実録連合赤軍』(製作・監督 若松孝二)という映画を見に行った時、本編上演前に流されていた「神田解放区(神田カルチェラタン)闘争」のニュースフィルムを見て驚きました。靖国通り(古書店街)で、学生と機動隊の「市街戦」が行われているのです。今ではまったく想像できませんが、これもまた、本の街、そして学生の街・神保町に刻まれた歴史のひとコマです。私が大学生だった頃(20年前ほど前)は、それでも、たとえば明治大学の記念館と「立て看板」は健在で、「往時の」雰囲気が多少は残っていました。けれども、現在のお洒落な(?)キャンパスからは、70年前後の記憶を想起するよすがもありません。

『ノルウェイの森』が描きだす東京は、一見したところ、(この小説が出版された)1980年代後半が舞台であるかと錯覚するほどクールで、そしてお洒落です。しかしよく読むと、周到に隠された「僕」のトラウマとその時代――70年前後の風景が浮かび上がってくるはずです。そこから、フエトの頃の神田神保町界隈に思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。

 

深津

2009/01/05 10:13

村上春樹『ノルウェイの森』(その4)

あけましておめでとうございます。今年もボツボツ更新していきますので、お付き合いください。

前回、「僕」と直子の散歩では、「正しさ」から疎外された「僕」が、「正しさ」の象徴である直子を追いかけている、という解釈をしました。そして、そのルート上で言及される地名にも意味がある、というようなことも書きました。その地名を確認しておきましょう。

中央線で偶然再開した「僕」と直子は、四ッ谷で電車を降り、外堀沿いに飯田橋へ。飯田橋から九段下に出て、靖国通りを直進。神保町を通り、駿河台の坂を上がって、お茶ノ水橋を渡ると本郷通り。あとはそのまま駒込駅へ向かいます。

佐藤幹夫さんは、『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』(PHP新書)という本の中で、この散歩コースが、三島由紀夫にゆかりの場所めぐりだと指摘しています。言われてみると、四ッ谷(三島の生家)、市ヶ谷(自決場所=防衛庁)、靖国神社、本郷(三島の母校=東大)と、三島にゆかりのある場所が揃います。

この佐藤幹夫さんの本は、村上春樹の小説を、「三島への挑戦」という観点から読み解いていて示唆に富むのですが――ちなみに、佐藤さんによれば、『ノルウェイの森』は『春の雪』への挑戦です。なるほど、ある種の「美学」という点ではよく似ています。『春の雪』もぜひご一読下さい――しかし正攻法に解釈するなら、この散歩コースは、60年代後半から70年にかけての「学生運動」の故地めぐりです。

ひとつの根拠として指摘したいのは、「僕」と直子の散歩が行われたのが、19685月から(直子が失踪する)翌年4月までである、という点です(毎回同じルートでないかもしれませんが、テキストにあえて記されたのは、この「四ッ谷―飯田橋―神保町―お茶の水―本郷―駒込」というコースでした)。この時期、このコース上で、「日大闘争」「神田解放区(カルチェラタン)闘争」「東大闘争」など、歴史的に有名な「事件」が起こります(日大、東大以外でも、上智大や法政大、明大、中大、東京医科歯科大など、コース上に点在する大学は、「学生運動」が盛んだったところです)。

次回は、『ノルウェイの森』と「学生運動」の関係について考えます。

深津

 

2008/12/19 10:14

村上春樹『ノルウェイの森』(その3)

だいぶ更新が滞ってしまいました(すみません)。前回の続きです。

『ノルウェイの森』では、「僕」と直子が東京をぐるっと半周する散歩コースの中に、神保町が描き込まれていました。以下、2回に分けて、この場面の重要性について考えます。

まず、この場面の「僕」の直子の位置関係を確認しておきましょう。前回の引用文で、二人は連れ立って歩いていますが、並んで歩いてはいません。「僕」は、「直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩い」ているのです。

この微妙な距離感の理由はいろいろ考えられます。たとえば、「僕」にとって直子は、何よりもまず、自殺した親友(キズキ)の恋人でした。「僕」と直子の関係は、キズキを介して成立していたわけで、直接的な繋がりではありません。再会したのも1年ぶりです。だから、ある種の遠慮が働いているのではないか、とふつうは考えるでしょう。

しかしこの小説の中で、二人の間の距離感はもう少し別の、より重要な意味を担っています。たとえば、東京をぐるっと歩き回る(だけの)二人の奇妙なデート(?)は、このあとも、日曜日ごとに繰り返されます。「僕」はなぜ、自殺した親友の恋人と会い続けるのでしょうか。「僕」にもその理由が分かりません。分らないまま、毎日曜日には、直子のうしろを歩き続けるわけです。もっとも、季節の進行とともにその距離は徐々に縮まっていきます。夏休みが終わる頃には、「僕」は直子と並んで歩くようになります。しかし、二人の間のちょっとした距離感は解消しません。たとえば、冬の寒い日。互いにしがみつくようにして散歩する場面でも、「僕」には、二人の間に介在するダッフルコートの布地一枚ぶんの(僅かな)距離が感得されます。「僕」にとって直子は、一メートルであれ、コートの布地一枚ぶんであれ、つねに、ちょっとした隔たりの先に感得される存在なのです。そして比喩的に言うなら、「僕」は日曜日毎に、ちょっとした隔たりの先に感得される直子を追いかけるように、東京中をぐるぐる回ります。

こうした「僕」の行為は、直子の心的状況を、身体的に反復しているようにも読めます。東京で再会した直子は、うまく言葉が出てこないという、精神的危機を抱えていました。その状態を、彼女は次のような比喩で語ります。第二章からの引用です。

「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいているのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしているみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」

このように、直子の危機は、「ちゃんとした言葉」を抱える「もう一人」の自分――ほんのちょっとの先に感じられる「正しい」自分――を追いかけた、ぐるぐる回りの状態として把握されます。では、直子はなぜ、こうした危機に陥っているのでしょうか。テキストはその答えを明示しませんが、キズキの死が、そのきっかけであることが仄めかされます。

いっぽう、「僕」もまた、キズキの死以降、「ちゃんとした言葉」を欠いた状態にあります。「僕」にとって、キズキの死がいかに「重かった」かは、第二章の次の記述から窺えます。

(キズキが死んでから――深津注)僕はまわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。僕はある女の子と仲良くなって彼女と寝たが、結局半年ももたなかった。彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかったのだ。僕はたいして勉強をしなくても入れそうな東京の私立大学を選んで受験し、とくに何の感興もなく入学した。

ふつうに考えれば、「僕」はかなり独善的で、ひどい奴です(笑)。でも、ここでは話を先に進めます。東京の大学に入ってからの「僕」の生活は、たとえばこんなふうに記されます。第三章からの引用です。

大学の授業でクローデルを読み、ラシーヌを読み、エイゼンシュタインを読んだが、それらの本は僕に殆んど何も訴えてこなかった。僕は大学のクラスでは一人も友だちを作らなかったし、寮でのつきあいも通りいっぺんのものだった。寮の連中はいつも一人で本を読んでいるので僕が作家になりたがっているんだと思いこんでいるようだったが、僕はべつに作家になんてなりたいとは思わなかった。何にもなりたいと思わなかった。

東京で出てきても、あいかわらずひどい状態ですが(笑)、ここで確認しておきたいのは、キズキの死後、「僕」が言葉というものに対して、正面から関わっていないということです。それは本来なら、「僕」にとって、相当深刻な精神的危機であるはずです。にもかかわらず「僕」は、直子がそうであるようには、自らの危機をはっきり自覚していません。しかし、「『正しい』自分を追いかける直子」を追いかけるという行為のうちに、危機からの回復を図る「僕」の無意識が読み取れます。「僕」にとって直子は、「僕」の危機以前、つまりキズキが生きていた頃の「正しさ」に繋がる唯一の手掛かりだからです。

長くなってきたので、ここまでの議論を整理します。『ノルウェイの森』の(人間)関係のプロトタイプは、ちょっとした隔たり=距離感です。その根本には、キズキの自殺があります。キズキの自殺をきっかけにして、直子は「正しい」自分から疎外され、その結果、「正しい」自分をぐるぐる追いまわし、「僕」もまた、その直子を追いかける形で「正しさ」を追い求めるのです。

このときに、追及する「正しさ」が、今の自分にとってあまりにかけ離れた存在だったら、そもそもそれを追いかけようとしないでしょう。「正しさ」は、手を伸ばせばすぐ近くにある(ように感じられる)。だからこそ、それを追いかけるのです。この意味で、東京を散歩する「僕」と直子の間の微妙な距離感というのは大事です。こうした関係はまた、この物語を回想する37歳の「僕」と、20歳で死んでしまった直子の関係にも当てはまります。

このような、小説内の関係のプロトタイプが、神保町が登場する『ノルウェイの森』の一節によく表れているのですが、ここでは、地名も重要な意味を持ちます。次回はこの点について考えていきます。

深津