2009/01/28 10:13
村上春樹『ノルウェイの森』(その5)
またしばらく更新が滞ってしまいました。お許しください。『ノルウェイの森』は今回で最後です。
さて、『ノルウェイの森』の中でも、学生運動について触れられています。そして、表面的に見れば、「僕」は学生運動に対しかなり冷淡です。たとえば、第四章には次のような一節があります。
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ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきて、ノートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。何故ならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。(略)僕は彼らのところに行って、どうしてストをつづけないで講義に出てくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。(略)僕はしばらくのあいだ講義には出ても出席をとるときには返事をしないことにした。
背の高い学生がビラを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立って演説をした。ビラにはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体で「欺瞞的総長選挙を粉砕し」「あらたなる全学ストへと全力を結集し」「日帝=産学共同路線に鉄槌を加える」と書いてあった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を駆りたてる力もなかった。(略)この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。
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ここで興味深いのは、「僕」がみせる妙なこだわりです。「僕」は、言行不一致の学生活動家を責め、彼らへのあてつけとして、出席を取られる際返事をしません。学生活動家に対する「僕」の批判は正論ですが、しかし前述したように、キズキの死以降、「僕」の言葉も彼らに負けず劣らず空疎でした。学生活動家を批判する「僕」は、この点に気づきません。いや、むしろそれを否認したいから、学生活動家の言行不一致に対し、必要以上に過敏な反応を示すのかもしれません。過剰な反応の背後には、必ず、何かを(強調することで)隠したい、否認したいという気持ちが働きます。この場合、「僕」が否認しようとしているのは、「僕」と学生活動家(学生運動)が実は同質の危機を抱えている、という現実です。いわば、根っこの部分を共有しているのです。
ところで、この小説は、37歳の「僕」の回想形式になっている、という話をいちばん最初にしました。ここに賭けられているのは、37歳の「僕」の自己救済です。そのために「僕」は、1970年の直子の死を描く必要がありました。直子の死を契機に、20歳の「僕」が(危機から)救われたからなのですが、この仕組みについて説明すると長くなるので省きます(興味がある方は、私が以前書いた『ノルウェイの森』論をご覧ください。『ジェンダーで読む 愛・性・家族』(東京堂出版)という本に収められています。なんだか宣伝めいて恐縮ですが)。
ただ、ここで確認しておきたいのは、37歳の「僕」の自己救済をかけた回想が、(敗北した)学生運動の記憶が固着した場所を、直子と直子(=正しさ)を追いかける、つまり正しさから疎外された僕を歩き回らせる場面からはじめられているという点です。それはまるで、何かを確認する「儀式」のようですらあります。
そういえば、『ノルウェイの森』のエピグラフには、「多くの祭の(フエト)ために」とあります。ここでいう「祭(フエト)」が何を意味するのか、テキストには何も書かれていません。しかし、「祭(フエト)」、「日常からの解放」、「狂騒」という連想で、これが1970年前後の若者の政治反乱(=「敗北した」学生運動)を指している気がしてなりません。だとすると、『ノルウェイの森』のエピグラフは、80年代後半の「今」から、70年前後の「祭(フエト)」を悼んだものであるようにも読めます。そして、この「悼む」という行為が、神保町界隈を含む神田・本郷辺を歩く「僕」と直子の身振りに集約的に象徴されているように感じるのです。
冒頭にも記したように、『ノルウェイの森』という小説は、バブル期の日本ではオシャレな恋愛小説として受容されました。しかしこの小説に底流しているのは、やはり、「祭(フエト)のあと」という主題です。じっさい韓国や中国では、若者の政治反乱(フエト)が終わったあと、この小説が熱狂的に支持されたといいます。じつはそのほうが、この小説の本質をついているのかもしれせん。
昨年、『実録連合赤軍』(製作・監督 若松孝二)という映画を見に行った時、本編上演前に流されていた「神田解放区(神田カルチェラタン)闘争」のニュースフィルムを見て驚きました。靖国通り(古書店街)で、学生と機動隊の「市街戦」が行われているのです。今ではまったく想像できませんが、これもまた、本の街、そして学生の街・神保町に刻まれた歴史のひとコマです。私が大学生だった頃(20年前ほど前)は、それでも、たとえば明治大学の記念館と「立て看板」は健在で、「往時の」雰囲気が多少は残っていました。けれども、現在のお洒落な(?)キャンパスからは、70年前後の記憶を想起するよすがもありません。
『ノルウェイの森』が描きだす東京は、一見したところ、(この小説が出版された)1980年代後半が舞台であるかと錯覚するほどクールで、そしてお洒落です。しかしよく読むと、周到に隠された「僕」のトラウマとその時代――70年前後の風景が浮かび上がってくるはずです。そこから、フエトの頃の神田神保町界隈に思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。
深津
2009/01/05 10:13
村上春樹『ノルウェイの森』(その4)
あけましておめでとうございます。今年もボツボツ更新していきますので、お付き合いください。
前回、「僕」と直子の散歩では、「正しさ」から疎外された「僕」が、「正しさ」の象徴である直子を追いかけている、という解釈をしました。そして、そのルート上で言及される地名にも意味がある、というようなことも書きました。その地名を確認しておきましょう。
中央線で偶然再開した「僕」と直子は、四ッ谷で電車を降り、外堀沿いに飯田橋へ。飯田橋から九段下に出て、靖国通りを直進。神保町を通り、駿河台の坂を上がって、お茶ノ水橋を渡ると本郷通り。あとはそのまま駒込駅へ向かいます。
佐藤幹夫さんは、『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』(PHP新書)という本の中で、この散歩コースが、三島由紀夫にゆかりの場所めぐりだと指摘しています。言われてみると、四ッ谷(三島の生家)、市ヶ谷(自決場所=防衛庁)、靖国神社、本郷(三島の母校=東大)と、三島にゆかりのある場所が揃います。
この佐藤幹夫さんの本は、村上春樹の小説を、「三島への挑戦」という観点から読み解いていて示唆に富むのですが――ちなみに、佐藤さんによれば、『ノルウェイの森』は『春の雪』への挑戦です。なるほど、ある種の「美学」という点ではよく似ています。『春の雪』もぜひご一読下さい――しかし正攻法に解釈するなら、この散歩コースは、60年代後半から70年にかけての「学生運動」の故地めぐりです。
ひとつの根拠として指摘したいのは、「僕」と直子の散歩が行われたのが、1968年5月から(直子が失踪する)翌年4月までである、という点です(毎回同じルートでないかもしれませんが、テキストにあえて記されたのは、この「四ッ谷―飯田橋―神保町―お茶の水―本郷―駒込」というコースでした)。この時期、このコース上で、「日大闘争」「神田解放区(カルチェラタン)闘争」「東大闘争」など、歴史的に有名な「事件」が起こります(日大、東大以外でも、上智大や法政大、明大、中大、東京医科歯科大など、コース上に点在する大学は、「学生運動」が盛んだったところです)。
次回は、『ノルウェイの森』と「学生運動」の関係について考えます。
深津
2008/12/19 10:14
村上春樹『ノルウェイの森』(その3)
だいぶ更新が滞ってしまいました(すみません)。前回の続きです。
『ノルウェイの森』では、「僕」と直子が東京をぐるっと半周する散歩コースの中に、神保町が描き込まれていました。以下、2回に分けて、この場面の重要性について考えます。
まず、この場面の「僕」の直子の位置関係を確認しておきましょう。前回の引用文で、二人は連れ立って歩いていますが、並んで歩いてはいません。「僕」は、「直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩い」ているのです。
この微妙な距離感の理由はいろいろ考えられます。たとえば、「僕」にとって直子は、何よりもまず、自殺した親友(キズキ)の恋人でした。「僕」と直子の関係は、キズキを介して成立していたわけで、直接的な繋がりではありません。再会したのも1年ぶりです。だから、ある種の遠慮が働いているのではないか、とふつうは考えるでしょう。
しかしこの小説の中で、二人の間の距離感はもう少し別の、より重要な意味を担っています。たとえば、東京をぐるっと歩き回る(だけの)二人の奇妙なデート(?)は、このあとも、日曜日ごとに繰り返されます。「僕」はなぜ、自殺した親友の恋人と会い続けるのでしょうか。「僕」にもその理由が分かりません。分らないまま、毎日曜日には、直子のうしろを歩き続けるわけです。もっとも、季節の進行とともにその距離は徐々に縮まっていきます。夏休みが終わる頃には、「僕」は直子と並んで歩くようになります。しかし、二人の間のちょっとした距離感は解消しません。たとえば、冬の寒い日。互いにしがみつくようにして散歩する場面でも、「僕」には、二人の間に介在するダッフルコートの布地一枚ぶんの(僅かな)距離が感得されます。「僕」にとって直子は、一メートルであれ、コートの布地一枚ぶんであれ、つねに、ちょっとした隔たりの先に感得される存在なのです。そして比喩的に言うなら、「僕」は日曜日毎に、ちょっとした隔たりの先に感得される直子を追いかけるように、東京中をぐるぐる回ります。
こうした「僕」の行為は、直子の心的状況を、身体的に反復しているようにも読めます。東京で再会した直子は、うまく言葉が出てこないという、精神的危機を抱えていました。その状態を、彼女は次のような比喩で語ります。第二章からの引用です。
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「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいているのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしているみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」
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このように、直子の危機は、「ちゃんとした言葉」を抱える「もう一人」の自分――ほんのちょっとの先に感じられる「正しい」自分――を追いかけた、ぐるぐる回りの状態として把握されます。では、直子はなぜ、こうした危機に陥っているのでしょうか。テキストはその答えを明示しませんが、キズキの死が、そのきっかけであることが仄めかされます。
いっぽう、「僕」もまた、キズキの死以降、「ちゃんとした言葉」を欠いた状態にあります。「僕」にとって、キズキの死がいかに「重かった」かは、第二章の次の記述から窺えます。
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(キズキが死んでから――深津注)僕はまわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。僕はある女の子と仲良くなって彼女と寝たが、結局半年ももたなかった。彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかったのだ。僕はたいして勉強をしなくても入れそうな東京の私立大学を選んで受験し、とくに何の感興もなく入学した。
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ふつうに考えれば、「僕」はかなり独善的で、ひどい奴です(笑)。でも、ここでは話を先に進めます。東京の大学に入ってからの「僕」の生活は、たとえばこんなふうに記されます。第三章からの引用です。
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大学の授業でクローデルを読み、ラシーヌを読み、エイゼンシュタインを読んだが、それらの本は僕に殆んど何も訴えてこなかった。僕は大学のクラスでは一人も友だちを作らなかったし、寮でのつきあいも通りいっぺんのものだった。寮の連中はいつも一人で本を読んでいるので僕が作家になりたがっているんだと思いこんでいるようだったが、僕はべつに作家になんてなりたいとは思わなかった。何にもなりたいと思わなかった。
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東京で出てきても、あいかわらずひどい状態ですが(笑)、ここで確認しておきたいのは、キズキの死後、「僕」が言葉というものに対して、正面から関わっていないということです。それは本来なら、「僕」にとって、相当深刻な精神的危機であるはずです。にもかかわらず「僕」は、直子がそうであるようには、自らの危機をはっきり自覚していません。しかし、「『正しい』自分を追いかける直子」を追いかけるという行為のうちに、危機からの回復を図る「僕」の無意識が読み取れます。「僕」にとって直子は、「僕」の危機以前、つまりキズキが生きていた頃の「正しさ」に繋がる唯一の手掛かりだからです。
長くなってきたので、ここまでの議論を整理します。『ノルウェイの森』の(人間)関係のプロトタイプは、ちょっとした隔たり=距離感です。その根本には、キズキの自殺があります。キズキの自殺をきっかけにして、直子は「正しい」自分から疎外され、その結果、「正しい」自分をぐるぐる追いまわし、「僕」もまた、その直子を追いかける形で「正しさ」を追い求めるのです。
このときに、追及する「正しさ」が、今の自分にとってあまりにかけ離れた存在だったら、そもそもそれを追いかけようとしないでしょう。「正しさ」は、手を伸ばせばすぐ近くにある(ように感じられる)。だからこそ、それを追いかけるのです。この意味で、東京を散歩する「僕」と直子の間の微妙な距離感というのは大事です。こうした関係はまた、この物語を回想する37歳の「僕」と、20歳で死んでしまった直子の関係にも当てはまります。
このような、小説内の関係のプロトタイプが、神保町が登場する『ノルウェイの森』の一節によく表れているのですが、ここでは、地名も重要な意味を持ちます。次回はこの点について考えていきます。
深津
2008/11/19 10:15
村上春樹『ノルウェイの森』(その2)
ご存じのとおり、『ノルウェイの森』は、記録的なベストセラー小説です(インターネットで検索してみると、87年の刊行以来の累計売り上げ部数は870万部、とあります)。このベストセラー現象に、「100パーセントの恋愛小説」という、作者自身によるコピーが大きく寄与したこともよく知られています。しかし、そう期待してこの小説を読んだ場合、読後にある釈然としない思いが残ることも否めません。それは、「100パーセントの恋愛」というのは、いったい誰と誰の関係を指していうのか、というものです。
この小説は、37歳の「僕」(作中、ワタナベ・トオルという名前が明かされます)が、20歳の頃(1970年前後)を回想する手記という体裁です。これは小説の冒頭、「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた」という一節により示されます。そして、第二章以降は(1個所の例外を除いて)まったく触れられないこの「枠組み」が、小説の設定にとって重要になります。詳しく見ていくと、「僕」がこの手記を書く背景にあるのは、37歳の「僕」が抱える、ある精神的危機です。それを回避するために、20歳の頃の記憶が呼び出され、文字に記されていくのです。その意味で、この小説のメイン・テーマは、37歳の「僕」の自己救済です。
したがって、たしかにこの小説では、20歳の頃の「僕」と直子、そして緑という女の子の間の三角関係的恋愛(??)が展開され、「僕」はいったいどっちの女の子と結ばれるんだ?、という興味を抱かせはします。しかし、この意味での恋愛(?)は、小説にとって重要なテーマではありません。
というより、この小説を大学で講義する際の(多くの)女子学生の感想からも明らかなのですが、「僕」と直子・緑の三角関係的恋愛は、結局のところ、「僕」の独り善がりや甘えにほかならず、本当の意味で恋愛といいうるものではないでしょう。では、本当の意味での恋愛とは何なのか…?? という難しい問題は、ここでは触れません(笑)。
ただ、『ノルウェイの森』でいう「100%の恋愛」とは、そんなふうに、ふつう一般的に言われるような「恋愛」ではない、とは言えるでしょう。ではそれは何なのか? というところが、『ノルウェイの森』を読み解くうえで1つのポイントになります。
さて、話を先に進めるために、簡単にあらすじを(小説内で起こる出来事の時間順に)整理しておきましょう。上述したように、この小説の中心的な話題は、「僕」の20歳の頃の出来事です。ただし、これを語るうえで欠かせないのが、その前史、とりわけ「僕」の高校時代の人間関係です。 「僕」は神戸の出身で、神戸の高校に通っていました。その頃の「僕」には、キズキという、文字通り唯一の友人がいます。このキズキの幼馴染で、(同時に)恋人だったのが直子です。「僕」の回想によれば、三人は自然に接近し、居心地の良い(三人だけの)小世界を築きます。しかし、幸福な関係は長く続きません。1967年の5月、キズキが、「ふと思いついたみたい」に自殺します。それは、まったく突然の出来事でした。それゆえ「僕」は、彼の死後、「まわりの世界の中に自分の位置をはっきり定めることができな」くなります。
翌1968年。高校を卒業した「僕」は、「神戸を離れたい」という理由だけで東京の私立大学に入学。その年の5月。中央線の電車の中で、偶然直子と再会します。キズキの死以来、1年ぶりの再会でした。直子もまた、神戸を離れ、東京で新しい生活を始めていたのです。『ノルウェイの森』に神保町が登場するのは、「僕」が直子と再会したその日の場面です。以下、第二章からその一節を引用します(引用文は単行本に拠ります。/は改行を示します)。
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僕と直子は中央線の電車の中で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだった。べつにどちらもたいした用事があるわけではなかった。降りましょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。それがたまたま四ツ谷駅だったというだけのことなのだ。もっとも二人きりになってしまうと我々は話しあうべき話題なんてとくに何もなかった。直子がどうして電車を降りようと言いだしたのか、僕には全然理解できなかった。話題なんてそもそもの最初からないのだ。/駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕のあいだには常に一メートルほどの距離があいていた。もちろんその距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだが、なんとなく気おくれがしてそれができなかった。僕は直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。何を言っているのか聞きとれないということもあった。しかし、僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女にとってどちらでもいいみたいだった。直子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向いて歩きつづけた。まあいいや、散歩には良い日和だものな、と僕は思ってあきらめた。/しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。ちょっとした道のりだ。駒込に着いたときには日はもう沈んでいた。穏かな春の夕暮だった。
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いつものように、引用が長きにわたりました。そのわりに、神保町が登場するのはわずかです。なんだ、靖国通り沿いにただ通過しただけか(?)と思われるかもしれません。
しかし、東京をぐるっと半周するこの日の散歩は、『ノルウェイの森』における関係性のプロトタイプといえるほど重要で、その過程で、神保町、お茶の水、本郷という地名が言及されるところにもまた、この小説のテーマに関わる、重要な意味があります(以下次回)。
深津
2008/11/05 10:16
村上春樹『ノルウェイの森』(その1)
「神保町文学散歩」のコーナー。漱石に次いで取り上げる作家は村上春樹です。彼は現在、「出せば必ず売れる」数少ない作家であり、また、欧米・中国・韓国でもっとも著名な日本文学者の一人です。
まずは作家のプロフィールを確認しておきましょう。村上春樹は1949(昭24)年、京都生まれ。いわゆる「全共闘世代」です(あとで述べますが、この時の体験が、彼の小説に大きな影を落とすことになります)。県立神戸高校卒業後、早稲田大学第一文学部で演劇学を専修。大学在学中(留年中?)に陽子夫人と結婚し、ジャズ喫茶を経営。1979(昭54)年、デビュー作『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」受賞。1987(昭62)年、『ノルウェイの森』が空前のベストセラーとなり、以降、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』といった大作を発表しています。このなかには、読んだことがある(買った覚えがある)という作品も多いのではないでしょうか。
さて、その村上春樹と神保町界隈との接点ですが、これが意外に(?)ありません。彼の小説の舞台といえば、やはり定番は、かつて彼がジャズ喫茶を経営していた青山(神宮外苑)界隈ということになります。小田急線沿線や中央線沿線というのもよく出てきます。いずれもいわゆる「山の手」です。
これに対して、東京の「下町」側は、とくに彼の初期作品にはほとんど出てきません。村上春樹の小説に、(上野・神田・日本橋といった)「下町」側が頻出するようになるのは、『ノルウェイの森』が最初です。今回「神保町文学散歩」として取り上げるのも、この『ノルウェイの森』に描かれた神保町です。(以下次回)
(↑)赤&緑と「クリスマス・カラー」のブックカバー。実際、20年前には、(恋人同士の)クリスマス・プレゼントとして人気でした。懐かしい…。
深津