2008/10/10 10:20

夏目漱石『門』(その3)

前回、宗助夫婦の「日常のリアリティー」を構築するのに、東京の都市空間が巧みに利用されていると書きました。『都市空間のなかの文学』(ちくま学芸文庫)という本のなかで前田愛さんが注目されているのですが、たとえば、宗助夫婦の住まいは、電車(市電)の終点から徒歩で20分ほど奥まったこんなところにあります。(なお、以下、本文の引用はすべて角川文庫版によります。)



魚勝という肴屋の前を通り越して、その五、六軒先の路地とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖で、その左右に四、五軒同じ構えの貸家が並んでいる。ついこの間まではまばらな杉垣の奥に、御家人でも住み古したと思われる、ものさびた家も一つ地所のうちに混じっていたが、崖の上の坂井という人がここを買ってから、たちまち萱葺をこわして、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請に建てかえてしまった。宗助の家は横丁を突き当って、いちばん奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔たっているだけに、まあいくぶんか閑静だろうというので、細君と相談のうえ、とくにそこを選んだのである。(二)



いまでいう郊外の、安普請の新興住宅地といった趣でしょうか。庶民向けの新開地ですから、インフラも十分ではありません。「崖の上の坂井(の家)」には引かれている電気も、崖下の宗助の家には引かれていません。それで夜になると、宗助の家ではランプを灯します。漱石はこれを巧みに用いて、宗助夫婦のありようを次のように描きだします。



やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口からしんとしていた。夫婦は例の通りランプのもとに寄った。広い世の中で、自分たちのすわっているところだけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助はお米だけを、お米はまた宗助だけを意識して、ランプの力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らしてゆくうちに、自分たちの生命を見出していたのである。(五)



ランプの灯だから、光が部屋の隅々まで届きません。ランプの灯で(逆に)際立たされる陰の存在が、夫婦のいまを脅かす過去の罪を暗示する。これが部屋を明るく照らす電灯だったらそうはいかないわけで、こんなところ――ひっそりした郊外の新開地に夫婦の住まいを設定したところにも、漱石の周到な計算が窺えます。

ところで、宗助はいっぽうで、日本の中心・丸の内の役所に勤める下級官吏(サラリーマン)という設定でした。日曜を除く毎朝(毎夕)、彼は郊外(丸の内)から丸の内(郊外)まで電車(市電)で通勤しています。その乗り換え駅が、駿河台下なのです。いまの駿河台下交差点あたりは、1909年当時、お茶の水から坂を下って錦町方面へ抜ける路線と、九段下から小川町方面へ通じる路線が交差する交通の要衝で、銀座通りに匹敵する市内有数の繁華街だったそうです。

『門』の二章には、駿河台下の当時の賑わいが次のように描写されています。これは宗助の通勤場面ではなく、彼が気分転換で訪れる日曜日の昼下がりの場面です。いまから100年まえの街の様子を知るうえで興味深いものなので、少し長いですが引用します。



宗助は駿河台下で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓ガラスの中に美しく並べてある洋書に眼がついた。宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞や模様の上に、あざやかにたたき込んである金文字を眺めた。表題の意味はむろんわかるが、手に取って、中をしらべてみようという好奇心はちっとも起らなかった。本屋の前を通ると、きっと中へはいって見たくなったり、中へはいると必ずなにか欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔まえの生活である。ただ History of Gambling(博奕史)と云うのが、ことさらに美装して、一番まん中に飾られてあったので、それがいくぶんか彼の頭にとっぴな新し味を加えただけであった。

宗助は微笑しながら、せわしい通りを向こう側へ渡って、今度は時計屋の店をのぞき込んだ。(中略)蝙蝠傘屋の前にもちょっと立ちどまった。西洋小間物を売る店先では、シルクハットの傍にかけてあった襟飾りに眼がついた。(中略)呉服店でもだいぶ立見をした。鶉御召だの、高貴織だの、清凌織だの、自分の今日まで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。京都の襟新という家の出店の前で、窓ガラスへ帽子のつばを突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍をした女の半襟を、いつまでも眺めていた。そのうちにちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。買っていってやろうかという気がちょっと起るや否や、そりゃ五、六年前のことだという考えが後から出てきて、せっかく心持ちのいい思いつきをすぐもみ消してしまった。宗助は苦笑しながら窓ガラスを離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間はなんだかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。

ふと気がついてみると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の書物が大きな字で広告してある。梯子のような細長い枠へ紙を張ったり、ペンキ塗りの一枚板へ模様画みたような色彩を施こしたりしてある。宗助はそれをいちいち読んだ。著者の名前も作物の名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、またまったく新奇のようでもあった。

この店の曲り角の影になった所で、黒い山高帽をかぶった三十ぐらいの男が地面の上へ気楽そうにあぐらをかいて、ええお子供衆のお慰みと言いながら、大きなゴム風船をふくらましている。それがふくれると自然と達磨の恰好になって、いいかげんなところに目口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。そのうえ一度息を入れると、いつまでもふくれている。かつ指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻がすわる。それが尻の穴へようじのような細いものを突っ込むと、しゅうっと一度に収縮してしまう。

忙がしい往来の人は何人でも通るが、だれも立ちどまって見るほどのものはない。山高帽の男は賑やかな町の隅に、冷やかにあぐらをかいて、身の周囲に何事が起りつつあるかを感ぜざるもののごとくに、ええお子供衆のお慰みと言っては、達磨をふくらましている。宗助は一銭五厘出して、その風船を一つ買って、しゅっと縮ましてもらって、それを袂へ入れた。きれいな床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんなきれいなのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日がかぎって来たので、また電車へ乗って、宅の方へ向った。



次回はこの部分を読み解きながら、『門』という小説が、駿河台下という場所にどのような意味を持たせているのか考察してみます。

深津