編集室だより

「三四郎」夏目漱石著

2016年 7月 23日by  島田 敏樹
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漱石没後、100年を記念して、おさんぽ神保町が発足したコンシェルジュチームによる漱石のガイドツアー等をこの秋に開催します。ガイドツアーを楽しめるよう漱石の「三四郎」を読みました。

熊本の高校を卒業した三四郎が、東京帝国大学に入学するため、上京します。

当時の東京は、明治から41年たち日本の古い文化から西洋化が急速に進んでいました。
昔の古い建物は取り崩され、西洋式の新しい建物に建て替えられ、街にはチンチン電車が走り、電報ができ、三四郎の下宿はランプでしたが、電気も引かれ始めています。
四足は食べないと言われていた時代から、学生集会でナイフとフォークを使って牛肉を食べビールを飲み、上野精養軒でソップを吸うなど牛肉を食べていました。また淀見軒でライスカレーを食べる等洋食が食べられるようになります。
シェークスピアの「ハムレット」が、上演されるようにもなりました。
個人主義、合理主義という西洋が300年かけて築き上げた思想を明治維新後40年でたどり着こうとしています。
明治維新前、孝(親)のため、忠(国)のため、仁(友)のため、義(社会)のためと、することなすことすべてが「他人のためだ」と言われていたのに、西洋から個人主義が輸入されると「自分のために」変わりました。
三四郎の大学の友人与太郎が寄宿させてもらっている英語教師広田は古い日本の文化を偽善、新しい西洋文明を露悪と言っています。

その一方燈明台という古い燈台の傍に偕行社の新式の煉瓦造りの建物が建てられるということが日本社会を代表しているように、東京にはまだ古い日本の文化も混在していました。

新しい西洋文化と古い日本文化との混在する東京で、上京した三四郎は迷子(stray sheep)になります。

そんな中三四郎は、美しい女性と出会いました。

三四郎の通う東京帝国大学は、明治17年(1884年)夏目漱石が入学したときは、神田錦町3丁目にありました。三四郎が入学したときは、本郷に移されています。
本郷に移された東京帝国大学の同郷の先輩の野々宮に会いに行った帰り、三四郎池の椎の木の下でしゃがんでいた三四郎は、扇子を持った里見美禰子と会います。

里見美禰子は女性解放を掲げる雑誌を創刊した平塚らいてうがモデルといわれています。
美禰子は、新しい時代の女性でした。

美禰子とは、野々宮の妹のよし子のお見舞いに再会し、広田の引越しの手伝いに行ったとき、一緒に部屋を片付けます。団子坂の菊人形に一緒に行き、日本帝国大学の運動会でも会います。三四郎美禰子は互いに好意を持ち出します。

美禰子も迷子でした。まだお見合い結婚が主流だった時代の中で、三四郎との恋愛に踏み切れず、兄の友人と結婚しました。

美禰子結婚後、美禰子をモデルとして描かれた絵の展覧会が開かれます。
三四郎が展覧会に行き絵を見ると、夏の終わりの暑い日、三四郎池の椎の木の下でしゃがんでいるときに、出会った扇子をもった美禰子が描かれていました。

西洋の新しい文化と古い日本文化とが混在する明治の時代の中、江戸っ子の「坊っちゃん」は、西洋文化は相容れないと排斥し、上京した「三四郎」は古い日本文化と新しい西洋文化の間に迷子になります。

西洋文化と古い文化との間で、主人公が翻弄され「それから」、「門」「心」と漱石の作品は進んで行きます。

定本 漱石全集 岩波書店にて2016年12月刊行予定

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