神保町文学散歩

田山花袋『東京の三十年』(その2)

2009年 2月 8日by  深津
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1886(明治19)年、上京した花袋(録弥)の一家は「牛込の奥」に落ち着きます。今で言うと、都営新宿線・曙橋駅あたりになるでしょうか。当時のその周辺の様子を、花袋は『東京の三十年』の中で次のように書いています。引用は岩波文庫版に拠ります。

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その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに出て来た。(「再び東京へ」)

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以上が、120年近く前の曙橋駅周辺の様子。今では地下鉄が通っているのですから、不思議なものです。それはさておき、上京した花袋は、文学雑誌に投稿する傍ら、友人と文学談義をしたり、英語学校に通ったりしながら、貪欲に新知識を吸収します。その主な舞台が、神保町を中心とする神田一帯でした。たとえば花袋は、当時大学予備門(東大の前身)の学生だった野島金八郎に感化をうけるのですが、二人は「東京の市街を其処此処と言わずほうつき歩」きながら、文学談義に耽ります(たしかに、散歩の最中には、よいアイディアが浮かんだりします)。以下、その部分の記述です。

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 神田橋のゴタゴタした下宿屋の並んだ汚い空気、元、学習院のあった錦町から護持院原の傍を掠めて一つ橋通に出て行く路、鎌倉河岸から今川橋の方へ行く通などをも私たちはよく歩いた。小川町の角にあった三角堂という小さな店では、かれはよくインキやペンや鉛筆などを買った。そこは肥った豊かな頬をした娘がいた。(「再び東京へ」)

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彼らの散歩コースが、神田一帯に集中しているのは、野島が通う大学予備門が、今の如水会館から共立女子大学一帯にあったことと無関係ではないでしょう(ちなみに、大学予備門の跡地に入ったのが東京商業学校(一橋大学の前身)で、一橋の名称はこれに由来します)。

また、当時花袋が通っていた英語学校は仲猿楽町(今の神保町二丁目周辺)にありました。つまり、「牛込の奥」から仲猿楽町まで、今の地下鉄の駅でいうと3駅分。そこを花袋は歩いて往復していたことになります。その時の様子を、『東京の三十年』では次のように記しています。(引用文中の/は改行を表します)

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その時分は、大通りに馬車鉄道があるばかりで、交通が不便であったため、私たちは東京市中は何処でもてくてく歩かなければならなかった。牛込の監獄署の裏から士官学校の前を通って、市谷見附へ出て、九段の招魂社の中へぬけて神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った。今日と比べて、人通りは多く、馬車が絡繹として、九段坂の上などは殊に賑やかな光景を呈していた。/大村の銅像、その頃はまだあの支那から鹵獲(ろかく)した雌雄の獅子などはなかった。丁度招魂社の前のあの大きな鉄製の華表(とりい)が立つ時分で、それが馬鹿げて大きく社の前に転がされてあるのを私は見た。そしてそれが始めて立てられた時には、私は弟と一緒に、往きに帰りに、頬をそれに当てて見た。夏のことなのでその鉄の冷たいのが気持が好かった。私と私の弟とは一緒に神田にある英語の学校に通った。/九段の坂の中ほどの左側に今でも沢山鳥のいる鳥屋の舗(みせ)がある。それがその頃にもあって、私と弟とはよく其処に立っては、種々(いろいろ)な鳥をめずらしそうにして眺めた。インコ、鸚鵡、カナリア、九官鳥、そういう鳥のいる籠に朝日が当って、中年の爺がせっせっと餌を店の前で擂鉢ですっていた。目白、ひわなどもいれば、雲雀、郭公などもいた。(「明治二十年頃」)

 

文中最初のほうにある「牛込の監獄署」というのは、今の新宿区富久町あたりにあった東京監獄・市谷刑務所のこと(のちの「大逆事件」(1910(明治43)年)で幸徳秋水らが処刑された場所です)。「士官学校」の跡地には、戦後、防衛庁が入りました。『ノルウェイの森』の回にもふれましたが、19701125日、三島由紀夫はここで割腹自殺します。また、「招魂社(しょうこんしゃ)」は靖国神社のことで、すでに1879(明治12)年には、東京招魂社から靖国神社に改称されていましたが、一般には、招魂社の名で親しまれていたそうです。

次回は、花袋が野島と散歩した一ツ橋界隈と、通学路として毎日のように通った靖国神社界隈の“今”を、当時と比較してみます。

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  • 花袋と紅葉(1) | てくてく 牛込神楽坂
    [...]  わたくしは、横寺町を通るたび田山花袋『椿』(大正15年版)という随筆集におさめられている文章の一節を思い出すのだ。「横寺町の通りは、山の手で名高い旨いどぶろくを売る居酒屋、墓地を隔てて紅葉山人の二階…。明治23、4年頃から34、5年まで、私はこの通りを何んなに歩いたかも知れなかった。恋にあこがれたり、富貴にあこがれたりして、時には失望の心遺るに場所がない為めわざわざ其処に出て来たりした」は、田山花袋の面目躍如たるものがある。 紅葉の住まっている横寺町の二階の窓を見ては、当時の流行作家である紅葉を羨やむ一方憎しみともなっていたのだろう。花袋の『東京の三十年』には、「自分より4つか5つの年上のー青年、それでいて、日本の文壇の権威、こう思うと、こうして、じっとしてはいられないような気がする。羨ましいと共に妬ましいという気が起る。」と、いっているのは、ほんとうの気持だったろう。 花袋が、群馬県館山林町から二度目の出郷をこころみたのは、兄が内務省修史局へ勤務するようになったので、牛込富久町の旧会津侯の邸宅の中にあった。 花袋はここから神田の英語学校に通ったのである。そこへいくまでの道程を、「牛込の監獄署の裏から士官学校の前を通って、市ヵ谷見附へ出て、九段の招魂社の中をぬけて、神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った」と、『東京の三十年』に書いているが、昔の人はよく歩いたものである。また、同書に「その時分(明治20年頃)は、大通りに馬車鉄道があるばかりで、交通が、不便であったため私達は東京市中は何処でもてくてく歩かなければならなかった」と、あるのをみてもよくわかる。 それから花袋が、19才の明治22年(1889)納戸町の家賃の高い家から甲良町へ移った。たぶんこの家のことだろう。前述の『椿』という随筆集にこう書いている。「貧しい私の家は、その頃間数の多い家に住むことはできなかった。私は三間しかない汚ない家の中にいた。私は、机を座敷の八畳の一隅に置いた。机の前が硝子障子になつているので、そこから猫のような小さな庭が常に見えた。投ったままにして置いた万年青の鉢だの丈の低い痩せこけた芭蕉だのボケだの、バラだのが見えた。時には明るい日影が射したり、雨がしめやかに降っていたりした。私はいつもそこで日を暮した」と、いう一節がある。 甲良町は、甲良屋敷のあとと、その附近の開墾地をあわせて、甲良町としたところで、花袋の住んでいたというのは、開墾地に建てた借家と見られるからいまの25番地附近と推定できる。 それはともかく、この文章を読むと明治時代の借家の間取りや環境がよくわかる。花袋はここで、小説、文学の勉強に専念していた。「いつまでも遊んでいるんだが、宅の“録”にも何処へでも5円でも10円でも取って呉れればよいに…」という母親の愚痴もいちどならずいくたびか聞いたことであろう。“録”というのは、花袋の実名録弥のことである。「自分もきっと、文壇の寵児になってみせる」といつも興奮していたし、外国文学の知識の吸収を怠らなかった。椿 国立国会図書館オンラインに載っています。 どぶろく 濁にごり酒ざけ。発酵してできたもろみを濾過することなくそのまま飲む。 富貴 ふっき。ふうき。富んで尊いこと。財産が豊かで位の高いこと。 心遺る こころやる。心に滞るものを他におしやる。心のうさを晴らす。心を慰める 東京の三十年 田山花袋の回想集。1917年(大正6年)、博文館から出版。 群馬県館山林町 現在は群馬県館林市城町14です。 内務省修史局 太政官正院地誌課は、1874年(明治7年)に内務省地理寮に合併、75年には修史局(77年修史館)に合併されました。 邸宅 下図で赤い図。 神田の英語学校 仲猿楽町(今の神保町二丁目周辺)だとインターネット「おさんぽ神保町」 監獄署 下図の中央 東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から) [...]
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